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688 NHKドラマ『坂の上の雲』を見てⅣ

 私の故郷は東北である。今となっては殆ど還る事はないが生まれは両親に聞いた事はないが、色々な事を合わせてみると岩手県の遠野市であったらしい。
 岩手県の遠野市となると、今はおもに民俗学者である『柳田國男(1875~1962)』の『遠野物語』の里と言う事で、女性を中心に人気を集めている様であるが、一方では本州で一番寒い所とも言われ、それを象徴するかの様に『南部曲家』などの存在が話題の中心となってくる様なのである。

 ただ、私は祖母が遠野市の田舎とも言える綾織と言う所に存命の折は、よく母親と共に訪れ、土地の人達とも遊んだ記憶はあるが、その様な遠野と言う所で『南部曲家』に因む『馬』と言う物を見かけた記憶は殆どないのです。
 遠野市には『南部曲家』の形式を保持する『千葉家』と言う見事なまでの住居があるのですが、私が訪れた時には既に『馬』の姿はなかったのです。

 つまり、一般の人々にすれば『南部曲家』ともなれば連想ゲームの様に『南部馬』が出て来る事にもなるでしょうが、『南部馬』の姿は既に絶滅してしまっていたと言うのです。
 岩手県は、今でも北海道に次に位置する日本第二の馬産地と言うのですが、最も『南部馬』に相応しい土地ともされる遠野市にも、既に『南部馬』の姿は消えていたと言えるのです。

 そんな遠野市でも流石に『馬』は、郊外の牧場にでも行けば見ることも出来ると思います。
 でも、古来から名馬の産地と言われた岩手県から『南部馬』は世界の何処にも見られないと言うのです。

 因みに、本来の『南部馬』と呼ばれている『馬』は、体躯は小柄な物の粗食に耐え持久力のあった『馬』として知られていたと言う事なのです。
 ですから、その面影を辿れば、現在青森県の本州最北端の岬と言われている『尻屋崎』の周辺に放牧されている『寒立馬(かんだちめ)』に姿が近かろうと言うのです。

 『尻屋崎』と言えば、今まではどちらかと言えば明治9年(1896)』に建てられた東北地方最初の『灯台』で光度200万カンデラを誇る灯台がある事で有名な岬です。
 この土地を訪れてみると、『寒立馬』は青森県の天然記念物ともされていますので、野生馬の様に思われる人もいる様なのですが、かっては『野放馬』とも呼ばれていた馬で、南部馬を租としていた江戸時代からの『田名部馬』とフランスから輸入されて来た『プルトン種』の馬との混血種とされているのです。

 昭和45年(1970)当地の小中学校の校長であった『岩佐勉』と言う人が『東雲に勇みいななく寒立馬 筑紫が原の嵐ものかは』と詠んで以来『野放馬』は『寒立馬』と名を代えたと言うのです。
 なんでも『寒立ち』と言う言葉は、元々はアイヌや狩猟暮らしを主としていた人達の言葉でカモシカが厳冬の中何日もジッと佇んでいる姿を見て言った言葉であった様なのです。
 世に言う『ヤマセ』の影響で冷たい霧の中に佇んでいる『野放馬』の姿にそれを観た事から名付けられたと言うのです。

 なんでも『馬』を研究している人に言わせれば、日本と言う国には元々『土着の馬』と言うのはいなかったと言うの事なのです。
 つまり、その祖先を辿れば皆モンゴルの草原にたどり着くというものらしいのです。
 その『モンゴル馬』と言うのは、現在のサラブレッドやアングロアラブと言う馬に比べればかなり小さい馬であったと言う事です。

 モンゴルの古い野生馬と言う『ブッシュバルスキー馬』の血を引くこの馬は、普段から群れで行動していた為に、気質は今日の競走馬に見られる様な神経質さは見られないと言うのです。
 この気質が『本質的に易しい』と言う事は、人間にとっても大事な事であって家畜としても育てやすいという一面を持っていたと言うのです。
 そして、蒙古では『タヒ』とも呼ばれていたこの馬は、従順で草原を走る事をもっぱらとしていた為、何よりも乗り心地が良い物であったそうなのです。

 この『モンゴル馬』の特長を上手に生かして世界に覇を唱えたのが『ジンギス・ハーン(1162~1227)』を始めとする『モンゴル帝国(1206~1634)』であったといわれます。
 歴史的にも『モンゴル』に生まれた馬と推察される代表的な馬には漢の『武帝(前141~前87)』に因む『汗血馬(かんけつば)』や小説『三国志』等に登場する『赤兎馬(せきとば)』が想像出来ると思います。
 一日千里(約500km)を走ると言うこの馬は、今や中国の伝説では『隠れもなき名馬』と言われているのです。

 『汗血馬』と言う馬は伝えでは『モンゴル馬』ではなく、『モンゴル馬』より背が高くて走力に優れた馬であったと言われ、血の様な赤い汗を流して一日に千里の道を走ったと言うのです。
 この御蔭で漢の武帝は『匈奴』を撃ち払う事が出来たと言う伝えが残る馬でもあるのです。
 確かに、中央アジアの大宛(フェルガナ)に産した馬と伝えられますが、後に中国の駿馬を指す言葉になった事を考えれば、モンゴル馬の系統を引き継ぐものとも考えられるのが自然と思うのです。

 ともあれ、その様な『モンゴル』の馬が、何時の頃に何処を通って日本に渡って来た物であるのかは、不明な所が多い様なのですが、それが現在の日本に9種ほど確認されている日本の『木曽馬』等の在来馬の祖先となっていると言うのです。
 遠野市の『南部曲家』ともなれば連想ゲームの様に『南部馬』が出て来る事になるのですが、果たして『南部馬』と言う物を私は見たことがないのです。

 でも最近、それは至極当たり前である事を教えられたのです。
 聞けば『南部馬』と言う物は現在では、何処を捜してもいないと言う事なのです。
 なんでも、明治・大正・昭和を通して日本人に徹底的に絶滅させられた『馬種』でもあった様なのです。
 つまり、遺伝学的には北海道の『道産子(どさんこ)』の様に気質を受け継ぐものはいる物の『南部馬』といわれるものは一匹も確認出来ない、その姿を無理に求め様とすれば青森県の下北半島にある『尻屋崎』の『寒立馬』になるのではないかと言う事なのです。

 つまり、『馬の歴史』としてみれば『馬』は当初、『モンゴル』から入って来たものであった為、支配者の祭礼や支配者の武装の道具として使われた様なのです。
 ですから殆どの所では後に見られる様に農耕馬としてではなく、軍馬として使われていた様なのです。
 その為多くの土地には根づかなかった様なのです。
 ただ、当時『辺境の地』と目された東北の地では、そればかりではなかった様なのです。
 中央から遠く離れていたことも有り、東北の地では『馬』は乗用・農耕用と其々の適正に合わせて育てられていた様なのです。

 その様に『馬の歴史』に詳しい人が更に言う事には、日本人が『馬』と言う動物の見方を誤まるのは、『馬』にも其々の適正と言う物があって、それ以外の領域のものには使えないものだと言う事なのです。
 つまり、『馬』だからと言って農耕にも戦にも使えるもではない。
 日本の在来馬と言う物にも乗系(乗馬に適したもの)と駄系(荷物を乗せ運ぶのに適したもの)とが歴然としていると言う事なのです。

 どうやら『みちのくの馬』は、人の手によってそれなりに大切に育てられ、みちのくの文化の担い手にもなって行った様なのです。
 はっきり言えば、『駄馬』と呼ばれる馬は、私が思っていた様な『安い馬』と言う意味ではなく、力仕事等物を運ぶ為に育てられた馬であったと言う事なのです。
 つまり、この為に結果的に『みちのく育ちの馬』は多くの目的に添って使われ、貴族には貴族なりの需要に租って使われ、武将達には戦闘上の必要から好まれていたと言うのです。

 なんでも、平安の昔の武将は表芸とも言える『一騎打ち』の為に修練を積んだと伝えられますが、そんな時は馬の高さが一つのポイントであった様なのです。
 すなわち、握りこぶし一つの高さが、相手より如何に高い位置から太刀を振り下ろせるかが生死を分けたと言うのです。
 つまり、この為に日本の刀に『反り』が生まれて行ったと言うのですが、同時に多くの馬から体高の高い馬が選ばれていった事は確かな様なのです。

 更に、『南部馬』の評判を上げたのは『源平の戦い』で『木曽義仲(1154~1184)』の軍を『源義経(1159~1189)』が『粟津の戦い(1184)』で打ち破ったのも大分影響してると言う事です。
 つまり、この戦いがきっかけとなり『木曽駒』と『南部駒』の馬体の高さの差が注目されて『南部馬』に勝てる馬はいないという噂も立ち、『馬なら南部馬』と言う神話的な話になって行き、私財を投げ打っても手に入れる様になったと言うのです。

 因みに、『平清盛(1118~1181)』の愛馬と伝えられる『餅月(もちづき)』、義経軍と義仲軍の争いの代表的な戦いとして知られる宇治川の戦い(1184)の『佐々木高綱(1160~1214)』の愛馬『池月(いけづき)』は青森県の七戸産、『梶原景季(1162~1200)』の愛馬『麿墨(するすみ)』も青森県の三戸産の南部馬として知られます。
 尚、『麿墨』はこの先陣争いの直後、木曽四天王の一人『根井行親(ねいゆきちか・生年不祥~1184?)』によって射られますが、彼はこの戦いで討ち死していると言う事です。

 又、続く『一の谷の合戦(1184)』の折、源義経は『鵯越の逆落とし』の名で知られる戦法で平家を駆逐する事になりますが、この際乗っていたと言う『太夫黒(たゆうぐろ)』は勿論奥州平泉の千厩産といわれる南部馬です。
 この『太夫黒』は続く『屋島の戦い』で能登殿(平教経・1160~1184?)の矢先に掛かったと伝えられる義経の四天王『佐藤継信(1158~1185)』の死を傷んだ証しとして菩提寺に納められ彼の墓の隣に眠っていると伝えられる馬なのです。

 又、この『一の谷の合戦』の一部として『須磨の戦い』と言う物がありますが、この戦いで『無官太夫敦盛(1169~1184)』を討った事で有名な『熊谷直実(1114~1208)』の乗っていた『権太栗毛(ごんたくりげ)』も南部馬なら、屋島の戦い(1185)の『扇の的』で有名な『那須与一(生没年不詳)』が乗っていた馬も名前は判らない様なのですけれど南部馬であったと伝えられている様なのです。

 この様に当時の武将達は争って南部馬を求めていた様なのです。
 実際に使ってみて、本当に乗りやすかったのではないでしょうか。
 『源義経』自身『太夫黒』を『佐藤継信』に献じて以来、『青海波(せいかいは)』『薄墨(うすずみ)』等と言う名前の南部馬に乗っているのです。
 『鵯越』で『鹿も四足、馬も四足』といった話は有名ですが、当時の馬は現在の競走馬には見られない強さを持っていた様なのです。

 因みに、当時の馬がどの様な体躯をしていていたかと言いますと、記録にはっきりしたものとして残っているのは『源平の戦い』以後の記録ですが、いわゆる『奥州合戦(1189)』の際、『西木戸太郎』と呼ばれた『藤原秀衛(1122~1187)』の長男『藤原国衛(?~1189)』が乗っていた『高楯黒(たかたてくろ)』を例にとって見ます。
 この馬は当時『奥州一の駿馬』とされていた様で、この馬の体躯は丈四尺九寸(147センチ)と言う記録が残っていると言うのです。
 『藤原国衛』は死を覚悟した上で自らこの馬を泥田に乗り入れ、あえて首を討たれたと伝えられているのです。

 ともあれ、この時代の馬は然程大きい馬であったとは考えられないのです。
 何しろ、前述の『一の谷の合戦』の『鵯越』では源氏の武将として隠れもなき『畠山重忠(1164~1206 )』が愛馬『秩父鹿毛(ちちぶかげ)』を失うまいと背負って降りたと言う逸話が残っている位なのです。
 ただ,この話には異説もあって鎌倉幕府の正式な歴史書と言われる『吾妻鏡』に縁れば、当時『畠山重忠』は義経軍にはおらずその様な事実は無いとして、それを知った人達は強力で知られる義経の側近『弁慶』の仕業として伝えられている所もあると言うのです。
 おそらく、山道を苦にしなかった『南部馬』を知らせる為に作られた話であると思いますが、何れにしろ当時の『馬』がそんな話が可能な大きさであった事は事実かとも思います。

 しかし、そんな平安・鎌倉期の軍馬として名を馳せた『南部馬』も江戸時代を迎えると、その様な宣伝ばかりでは役に立って行かなかった様なのです。
 つまり、平和な時代が続く様になると急速に『軍馬』は需要を減らしていく事になり、『農耕馬』や『駄馬』の需要の方が多くなって行ったと言うのです。
 特に江戸時代と言う期間は、『五街道』の整備と共に『参勤交代』などが行われ、駕籠や馬方の需要は増えていった様なのですが、戦闘に向く『軍馬』等と言うものには関心が向く事はなく、乗馬技術に進歩が見られなかった様なのです。
 むしろ『馬』を怖がる武士さえ出て来ている様なのです。

 代表的なものが、当時街道筋で売られていた『馬わらじ』の存在と言えます。
 今ならば『馬』が必ず履いている『蹄鉄』が無かった事がそれを示していると思うのです。
 実際、歴史的に言えるのは、八代将軍『徳川吉宗(1684~1751)』の頃、オランダ製の『蹄鉄』と言う物が伝わった時期があると言う事が記録され、武芸好きの『吉宗』も大分興味を示した様なのですが、結果的には普及する事無く終わっているのです。

 その頃は『鍛冶屋』も存在していたと思うのですが、所謂『馬わらじ』の存在で十分であったと言う事になりそうなのです。
 なんでも『蹄鉄』が日本の馬に履かれる様になったのは、明治に入ってからの事であった様なのです。
 つまり、本格的に使われる様になったのは、日本に新しい軍隊が設けられる様になってからの事、外国に互する軍隊が必要になってからの事なのです。

 ただ、惜しむらくは今の『日本の馬』と言う物は、殆ど例外なく生まれた時から蹄鉄を履かされているようですので『馬わらじ』を履く馬などは殆どいない様なのです。
 ですから、映画の時代劇を撮ろうとすれば、『南部馬』もいないし『馬わらじ』も殆ど手にはいらない状態であると言うのです。
 多分にリアルさに目をつぶる事になると言うのです。
 最も、チャンバラすら無理な現象であったと言いますから、話は全然変わり、『韓流ドラマ』の様に面白くは行かないのかも知れません。

 ともあれ、小説『坂の上の雲』で『日本の騎兵の父』と呼ばれた『秋山好古(1859~1931)』は、こんな時代下に生まれて来たと言えるのです。
 彼は松山藩の下士の家に生まれた為、生活その物は楽なものではなかったようなのです。
 その様な事情もあった事から『秋山好古』は初めは師範学校に進み教員に成ろうと思っていたと言うのです。
 しかし成績も並外れて優秀だった事から先輩の勧めもあって『陸軍士官学校』に転身する身となり、そして『騎兵科』に学ぶ事になりとり、あえず騎兵将校として勤めていた様なのです。
 そして明治20年(1887)には伊予勝山藩主であった久松家の当主『久松定謨(ひさまつさだこと・1867~1943)』に随行する形でフランスへ渡り、騎兵戦術の習得に努める事になるのです。

 その中で、彼の脳裏に飛来したものは、日本軍の『軍馬』の貧弱さと、日本の『騎兵』の未熟さであったと言う事なのです。
 確かに、日本では『騎馬戦術』の育たなかった国と言えそうなのです。
 つまり、日本の風土は実際的にそれを必要としなく、歴史の中でも『騎馬戦術』が大いに威力を発揮し、勝敗の行方を決めた戦いはなかった様なのです。

 一般の小説的に言えば、甲州の『武田騎馬隊』が最も有名なのですが、その代表的な『長篠の戦』で織田・徳川の連合軍の三段がまえの鉄砲隊の前に敗れたと言われていますが、最近の色々な研究からは世に言われている様な突撃の事実はなく、後世の作者の創作と見られる様になっていると言うのです。
 むしろ『武田騎馬隊』の本当の強さは、戦いの仮想地点まで如何に早く移動出来るかであり、その移動が尽く予想を上回っていたと言う事で、それが『武田軍』を怖ろしがらせた原因であった様なのです。

 確かに私は、『馬』と言うものに乗った経験も有りませんが、その難しさは『馬場馬術』の大会を見ていても想像出来るのです。
 聞けば『馬』と言う動物は大変デリケートな動物で、乗り手との相性と言うものも有り、結果的に大分違ってくると言うのです。
 『馬』そのものの性格も千差万別で、水を好むものも水を見ただけで動かなくなるものもいると言う事なのです。

 つまり、多くの『馬』を扱っている牧場では、その個体差を掴んで調教した上でなければ、外には出せない動物で下手をすれば悲惨な事故になりかね無いのが『馬』と言う動物であると言うのです。
 『馬」の牧場を営んで行く上で、優秀な『調教師』の存在は生命線であると言うのです。
 しかし、多くの『馬の調教師』の方に伺いますと、理想的には『南部曲家』の様な所で一緒に寝起きしてみる必要があると言うのです。

 ですから、簡単に『騎馬戦』を行うと言っても、多くの武士達は大概馬を御しきれずにむしろ『馬』に足を引っ張られる事が多く、武士達は騎乗せる馬があったとしても、戦場では、必ず降りて戦うように勤めたと言うのです。

 しかし、大陸の国々では戦場が広かったことも有り、『一撃離脱』の戦法が主流となった事も有り、昔は『軽騎兵』と呼ばれる人達が主力を占めたこともあったそうなのです。
 その様な立場で見れば、馬体の大きさは比類なき物となる様なのです。
 つまり、どの様にひいき目に見ても『南部馬』の様な馬は、『騎兵』には向かない馬ともなった様なのです。

 その様な中で『騎兵隊』を編成し、『騎兵部隊』を世界的なレベルに高める事は簡単な事ではなかった様なのです。
 『秋山好古』が考えた具体的な目標としては『ロシア皇帝』机下の『ウクライナ・コサック』に勝つ事であったと言うのです。
 その様に考えると、見通しは絶望的なものと思えたらしいのです。

 『ウクライナ・コサック』と言うのは地域ごとに『サポロージャ・コサック』『ドナウ・コサック』『クバニ・コサック』と分かれていると言うのですが、従来はヨーロッパの『タタール人』や『トルコ人』の侵略から国土を守ったと言う武力集団でもあった様なのです。
 その為誇りも高く軍律もしっかりしていて、ロシア軍の中でも最強と言われていた様なのです。

 『秋山好古』の目にも当初は、彼らが世界最強の軍団と映り彼等を打ち破る事のみが日本の生命線であると思っていた様なのです。
 その為、明治26年(1893)騎兵第一大隊長に就任すると共に、翌年の『日清戦争』に従軍して、更にその意を強くしたと言われ、日本陸軍内部の改革を進言する事にまで及んだと言うのです。
 つまり『軍馬』はもとより、『騎兵隊』を取巻く環境総ての改革を思考した様なのです。

 当時、軍部には『騎兵隊』に関するものとしては明治7年(1874)に創設された『軍馬補充部』と言う部署が有り、各地から軍馬の補充が行われていた様ですが、その様な部署は『軍馬を調達する所』に過ぎないので、これでは『最強の騎兵隊』には初めから無理と言う事にもなるのです。
 しかし、当時徴用された『軍馬』は主に輸送手段として使われていたものも多かった為、特に問題は見られなかった様なのですが、これでは『騎兵』は日本では初めから門外に置かれていたとも言えるのです。

 そこに『秋山好古』が『日本騎兵の父』と呼ばれた理由があるのかも知れません。 『秋山』はその様な体制の下、騎兵の技術向上には最深の配慮を示した様なのですが、それまで平和目的にばかり使われて来ていた『馬』には考えを改める以外なかった様なのです。

 『軍馬』の彼我の差の大きさを認め、その改善も具申したと言うのです。
 果たして、軍部では『日露戦争(1904~1905)』後の1906年『軍馬の改良育種』を目的とした事業に着手する事になるのです。
 なんでも1906年4月の宮中午餐会の明治天皇の『馬匹改良の為に一局を設けて、速やかにその実効を挙ぐべし』と言うのがきっかけで『馬政局』が設置される事になったと言うのです。

 大筋で見れば、『馬政局』によって日本で一番良い馬と見られていた『馬』が後の世に見られなくなったとも言えるのです。
 冷静に見れば、余りにも遅くこの事が行われた為、そして挙国一致でこの事が行われた為、『南部馬』の姿は消えてしまったと言えるのです。

 ともあれ、『秋山好古』が関係した『日露戦争』までは、『日本の軍馬』と言えば国産のものなら『南部馬』であったかと思うのです。
 何しろ『南部馬』は、身体も小さく粗食に耐え、足もしっかりしていた事から『軍需物資』の輸送等には最も向いていた『馬』であったかも知れないのです。
 考え様によっては、それが『軍馬』の開発を遅らせたと言えるのかも知れないのです。

 しかし、実際に『騎兵』が乗る馬としては前述した様に多聞の問題がある馬なのです。
 実際『日露戦争』当時、日本陸軍がどれ程の『騎兵に向く輸入馬』を持っていたのか資料が手には入りませんでしたので判りませんが、全体的に軍資金も儘ならぬ中で『日露戦争』に突入する事になった日本です、それ程の理解が軍部にあったとは思えないのです。

 そんな中で、『秋山好古』は明治37年(1904)『日露戦争』に於いて騎兵第一旅団長として出征し、『秋山支隊』として第2軍に属して『沙河会戦(さかかいせん)』『黒溝台会戦(こっこうだいかいせん)』『奉天会戦(ほうてんかいせん)』に歴戦する事になるのです。

 特に『黒溝台会戦』では『秋山支隊』はロシア軍の『コサック軍』と全面対決し、これを打ち破る事になったと言われるのです。
 どの様な方法を取ったかと言えば、『秋山好古』は部下の騎兵に、当時装備としては絶対的に数が少なかった『機関銃』を持たせ、馬の走力を効果的に使うことによって早い移動を行って、40キロに及んでしまった戦線を僅か8000人で守り通したと言われるのです。

 『黒溝台会戦』と言うのは、ロシア軍の大攻勢によって起きた会戦で1905年の1月に起きた戦いです。
 つまり、ロシアはそれまでの続いた敗戦を打ち払おうとしてヨーロッパにあった『グリッペリング大将』指揮下の総勢105000人で日本軍を撃破しようと作戦下に起きた会戦でもあった様なのです。
 これに対し日本軍は総勢でも54000人の兵力しかなかったとされ、防衛線としては極めて不利な状況下であったと伝えられるのです。

 そして、そのロシア軍の中には『ミンチェンコ中将』指揮下の『ロシア騎兵隊』総勢1万人の部隊がいて、結果的に『秋山支隊』はこれと全面対決する事になってしまったと言うのです。
 それまでの騎兵は、持つ武器と言えばサーベルやカービン銃程度のもので、その機動力で敵を圧するものであったと言うのですが、彼はその思考を捨てて機関銃で敵に応じたと言うのです。

 ある戦術に詳しい人の話に縁れば『騎兵は高い所に身を置かねばならないので本質的には飛び道具には弱いものである』と言うのです。
 『秋山』は然るべき所に『壕』を堀り、馬ごと突っ込んで身を守り、後に機関銃を発射して『コサック騎兵』を打ち破ったと言うのです。
 季節も1月ですので満州と言う土地は、土も固く凍りつき『ツルハシ』を振るっても一日に7センチぐらいしか掘れない所でもあったそうなのです。
 日本軍はこの風土をも味方につけたと言うのですが、結果的に死傷者12000人を出して『ロシア軍』は退却したと言うのです。
 因みに、日本軍の死傷者は9300人と報告されていると言いますので、どれ程の激戦であったのか偲ばれるかと思います。

 ともあれ『秋山好古』が、この時世界に示した戦法が与えたものは、外国に於いてこそ、非常に評価されたのではないかと思います。
 日本では『軍馬』として優秀なものを作り出すことに血道を上げた故ともなっているのですが、外国では『軍馬』に見切りをつけて『戦車』の様な『機甲兵器』に関心を示す国々が多くなった様なのです。
 特にドイツでは逸早く『騎兵隊』の利点を多く取り入れた『機甲部隊』を編成しているのです。
 つまり、先進各国では『騎兵』が続々と『戦車兵』に代わって行ったと言うのです。

 それにしても『坂の上の雲』を見ていて思った事は『秋山好古』の最後の事です。
 臨終の床で『馬』に乗る夢を見ているなんて素晴らしい事だと思います。
 彼なりの血なまぐさい経験をして来ていたから、のんびり『馬』を打たせたかったのではないかと思うのです。
 退官後、彼は故郷松山の私立学校(現・松山東高校)の校長となったそうで、彼の経歴を知るものは、彼の軍服を見たがったり、彼の手柄話を聞きたがったりしたそうですが彼は笑って濁すばかりであったと言います。
 彼の前で、余りにも多くの人達が死んで行き、一つずれれば自分であった事を思い出し、『手柄等は偶々の事』と思ってもいた様にも思うのです。

 聞けば、海軍の司令長官でもあった『東郷平八郎(1848~1934)』の逸話にも同じ様な事を思うのです。
 いわゆる『乃木大将(1849~1912)』の殉死を受けて陸軍出身者は彼を『軍神』として弔う為に乃木夫妻が自刃した旧邸の跡地に『乃木神社(港区赤坂)』を建てたのが始まりであったと言うのです。

 これを見た海軍出身者は、軍功では『バルチック艦隊』を撃滅させた『東郷元帥』に及ぶものはいないとして『東郷神社』を建てましょうと彼に持ち掛けたと言うのです。
 すると、彼の表情は突然変わり『俺は、未だ生きている!』と一括し、話はそれ以来なされる事はなかったと言うのです。
 現在『東郷神社(渋谷区神宮前・昭和15年)』と言う物は、存在しますがこれは彼の死を悼む神社の創建と献金が相次いだ為と伝えられ、彼が神になりたかったと言う節は何処にも見られないと言う事なのです。

687 NHKドラマ『坂の上の雲』を見て Ⅲ

 『正露丸』と言う薬がある。
 この薬の効能はと見ると『腹痛 下痢 消化不良による下痢 食あたり 吐き下し 水あたり くだり腹 軟便』『おもに胃や腸の調子を整える』『歯髄炎による虫歯の痛み』あるそうなのである。

 この薬が発売された明治と言う時代は、病院などと言う施設も少なかったこともあって『万病に効く』と言う噂も手伝って非常に一般的な薬となり,当時『国民病』とも言われた薬であった様なのである。
 戦後生まれの私にとっては、この主成分と言われる『クレオソート』の臭いだと思いますが、独特の臭いが鼻につくと共に苦味が印象的なほど強い物でもあったので『良薬は口に苦し』と言われても、決して好きな良い薬とは言えなかったのです。
 現在の今も発売されていて、その臭いを押さえる為に『糖衣錠』が多い様なのですが、私にはそのイメージが常について回る薬なのです。

 なんでも、この薬の発生の源を辿れば、元々は『日清戦争(1894~1895)』の際に中国に派遣された日本陸軍が悩まされ続けた病気にあったと言う事なのです。
 つまり、大陸に渡った兵士達は当然の事ながら当地の水を飲む事になりますが、呑んだところ其々に『お腹を壊し、ひどい人になるとチフスと言う伝染病』を連想させる状態となったと言うのです。

 日本人から見れば、大陸と言う所は広い所ですが便所の少ない所でもあり、とかく『不衛生な水』を呑混ざるをえない所でもあった様なのです。
 古くから日本でも旅に出る事にもなると『他所の地の水はうっかり呑んではいけない、必ず沸かしてから呑みなさい』等と言われていた様でもあるのですが、大陸と言う所となれば尚更の事となります。
 つまり、『正露丸』と言う薬の元々は兵士のお腹を大陸の水から守る為に創られた殺菌力の強い薬であった様なのです。
 どうやら、その殺菌力の強さが後に『脚気にも効く薬』と言う噂を読んだ様なのです。

 かと言って、殺菌力の強い『丸薬』では大陸の『不衛生状態』を根本的に作り直すことは期待出来ず、結果的に兵士にどの様な薬を持たせるかと言う事が問題に成った時、この『丸薬』が日本陸軍に採用されたと言うのです。
 つまり、兵士達が『お腹を壊していては戦争も儘成らぬ』事から『正露丸』は開発され、兵士達は毎日服用したらしいのです。

 この『正露丸』は今では固有名詞化していて、何処のメーカーも使える名前となっている様なのですが、元々は『日露戦争(1904~1905)』の開戦2年前の明治35年(1902)に『ラッパのマークの大幸薬品』によって開発発売された丸薬であった様なのです。

 商品名は『日露戦争』の開戦前と言う時代背景もあってロシアを征伐する事と将兵の意気を高めると言う事から『忠勇征露丸』と名付けられた物であったと言う事なのです。
 このイメージが余りにも強かった為なのか、『正露丸』は国民的な常備薬ともなって行った様なのです。

 『日露戦争』の勝利によって、名前は『正露丸』と変わり当時の雰囲気を失ってしまったものの薬の有効成分は一部の生薬を除いてほとんど変わっていない物であるそうなのです。
 なんでもこの『正露丸』の主成分と言われている『日本薬局方クレオソート』と言う物は、当時は『木クレオソート』と呼ばれていたスエーデンから輸入された物であったそうですが、非常に殺菌作用の強いものであり、大腸に届く前に吸収されて血液を介して身体に作用したと言うのです。

 つまり、医学的に見ても『食あたり』に聞いただけでなく『冷えによる下痢』『風邪伴う下痢』『ウイルス性の下痢』等に効き、大腸の過剰な動きを抑制して『お腹の差込を抑える働き』もあった為『万病に効く薬』と思われていた様なのです。
 兵士達は毎日この『忠勇征露丸』を服用し、それが後の『正露丸』の普及にも大きく影響したらしく、他の薬品会社も製作販売して少なくとも戦前の家庭の常備薬ともなって行った様なのです。

 『日清戦争』『日露戦争』の様に外地に出兵する事となった場合、軍隊は日本の兵隊達の健康を如何に維持するかと言う事が、先ず深刻な問題としてあった様なのです。
 確かに外国で敵と戦う以前に戦わねばならないのはその土地の風土という事になり、『下痢』等によって派遣した戦力が使い物にならなくなっては戦いどころではなくなるのです。
 『日清戦争』と『日露戦争』と言う物は、その様な認識を持たせたものと思うが、一体如何であったろうか。

 でも、『日本の歴史』を観れば、似た様な先例はあるのです。
 果たして、これを先例と言って良いものかは議論もあると思いますが、一番代表的なものとして伝えられるのは、戦国時代末期に起こった『フグの中毒死』事件と言えるのです。
 この事件は『豊臣秀吉(1536~1598)』が企画した朝鮮征伐(文禄の役・1592)に際して起きた事件と言われています。

 つまり、朝鮮征伐に望んで肥前の国に『名護屋城』を築城し、ここを基地として各地から16万の兵を集め、朝鮮へ出兵させたと言うのです。
 しかし、この際一旦下関に集結した兵達は、この地に『フグ』なる美食で知られる食べ物がある事を聞きつけて、争って食することが起きたと言うのです。
 実際に、この事件でどれ程の人達が亡くなったものやらデータがないのではっきりとは判りませんが、『フグが美味しいものである』と言う事だけを聞きつけた人達が、我先にとフグを食べた結果、起きた事であったと言う事なのです。

 つまり、『フグに毒のある』事も知らずに内蔵をも鍋に入れて食べてしまい命を落とす人が続出したと言うのです。
 聞けば『フグ』と言う魚は、日本近海には約40種類ほど生息していると言うのですが、中には『食べられないフグ』もあると言うのです。

 その辺の所を私は良く判らないのですが、『食べられるフグ』でも、命が惜しければ食べる事は難しいと言うのです。
 つまり、世に言う『フグの毒』と言う物はフグの種類によって毒のある所が違うと言うのです。
 『毒の強さ』も違うと言いますが『フグ』の筋肉も食通と言われる人には人気のものであると言うのです。
 思い出してみれば、食通でなくとも『ふぐ刺し』は一皿ぐらいは箸でゴソットと行きたい人が多い様なのです。

 ところで『フグ』にある毒に注目しますと、一般に良く知られている毒と言う物は肝臓を中心としてあるものだと言うのです。
 すなわち可食部分が『フグの筋肉・皮・精巣のみ』に限られると言われる『フグ』は『トラフグ』『カラスフグ』『シマフグ』『カナフグ』『シロサバフグ』『クロサバフグ』『ヨリトフグ』『イシガキフグ』『ハリセンボン』『ヒトズラハリセンボン』ネズミフグ』と呼ばれる『フグ』であるそうなのです。

 ところが、これらの他に可食部分を減らせば食べられる物もあると言うのです。
 前述の『フグ』の他に皮も食べてはいけない物、つまり可食部分が『筋肉と精巣のみ』となるのは『シュウサイフグ』『マフグ』『メフグ』『アカメフグ』『ゴマフグ』『ハコフグ』、更にこれに加えて精巣もダメと言う物は、つまり『筋肉のみ』となるのは『クサフグ』『コモンフグ』『ヒガンフグ』『サンサイフグ』だと言うのです。

 これは漁師達の長い経験から生まれて来ている知識だと思いますが、とにかく日本では古い時代(縄文時代)から食べ続けられて来ている物であった様なのです。
 聞きますと、これは日本に限った事でなく海辺に住む民族には一様に見られる事でもあると言うのです。
 ただ、それが商業ベースになっているかが現在では大きな問題でもある様なのです。

 通を自認する人達に言わせますと、惜しむらくは日本の様に厳しい規制下にある国は然程多くなく、それらの国から産出される『フグの中毒死』と言う問題は比較的多い様なのです。
 なんでも、世界には185種の『フグ』がいるそうで、今では『フグには毒がある』と言う事は半ば常識化していて、それ故に公表出来ない様なそんな事情があるのではないかと言うのです。
 これは現在の様に、近代化した『貨幣経済』が齎している現象と言えるのかも知れません。

 現実に、名護屋城に各地から終結した将兵の様に、ただ『美味しい魚である』と言う風聞を頼りにネット等で中国などから『航空便』で取り寄せて、事故に会う人達が結構多い様なのです。
 その様になった場合、『フグの毒』に対しては『特異療法(血清等)』は開発されていない事から、自然に任せる以外処置は無いと言うのです。
 ですから、事故が起きると『中国物は危ない』等となってケリが付く事になるのだと言うのです。

 ともあれ、現代の日本では『フグ調理師』の免許等によって厳しい管理の下で売られていますので、その下では事故は少ないと言うのですが、そんな中でも『フグの肝は美味しいもの』と言う噂が一人歩きしている事が脈々としてあり、その様な管理下にない所謂素人料理等では、事故の確率も高くなると言うのです。
 その為、現在の日本でも一年平均で毎年3~5人の人達が『フグ中毒』で死亡していると言う事なのです。

 とにかく『フグ』と言う魚を食するには、『フグの毒』と言う物を避ける為に何よりも経験的な知識が必要とされた様で漁師の人達は、それを知るが故に食べ続けても来られていた様なのです。
 なまじ、通を気取って『フグの肝を食べて見せる』と言う人達が一番犠牲になっている様なのです。

 此処で戦国時代の話に戻る事とします。
 地方から来た多くの将兵は当然の事ながらその様な毒を取り除く方法を知る事無く、『美味しい』と言う噂だけで食べたと言うのが実状であったらしいのです。
 そして、事故が起きて死ぬ人が現れても『美味しいフグ』と言う噂には勝てず、次々に死者が増えて行った様なのです。

 因みに『フグの毒』と言う物は『テトロドトキシン』と言う物が肝臓を中心にしてあると言われています。
 一体、どれ程の致死力を秘めているものかと言えば、『マフグ』一匹で約32人、『トラフグ』で10人、『ヒガンフグ』で11人が命を奪われる事になると言うのです。
 つまり『陣中食』として、鍋にフグ一匹を放り込もう物なら間違いなく鍋の周りの人々は殆ど死亡した事になった様なのです。

 その為、『豊臣秀吉』は『フグの絵』を書いた高札を立てて、『この魚食うべからず』として厳しく食用を禁止したと言うのです。
 この流は、時が流れて徳川の江戸時代になっても続き、特に『武士』達には『フグ食の禁止』が続けられていたと言うのです。

 この禁令は『不忠の食べ物』として武士全般の『法度』ともされた様なのですが、特に現在フグの本場とも言われる地に極近い『毛利藩』のものは厳しかったと言うのです。
 『毛利藩』では『フグを食べるとそれだけでお家断絶』と言う事であった様なのです。

 言ってみれば『武士として主家の興亡に備えなければならない身分の者が、己の食い意地だけで命を落とす様では、精神のあり方が間違っている』つまり主家を無視する武士にあるまじき行為と思われ続けた様なのです。
 つまり、明治を迎えるまで『武士』と言う人達は『フグ』と言う魚を食べる事は禁止され続けていた様なのです。

 しかし、これが庶民となると一寸事情が違っていたと言うのです。
 特に、江戸時代に安定感が感じられる様になった元禄期以降は裕福な人達の中に『フグ食を楽しむ文化』が表面化してきたと言うのです。
 この裏側にはおそらく、漁師を中心とした人達の『フグ食』の文化があったのだと思います。
 彼達にはには『フグ』の危険性も判っていたと言える様なのです。

 因みに、私は先日、石川県の郷土料理とされる『河豚の卵巣のぬかづけ』と言う物を二切れ食べる機会に恵まれました。
 『河豚の卵巣』と言えば、この部所はどのフグにとっても猛毒の存在する部所として知られ『フグ調理師の免許』を持った調理師さん達は、皆鍵のついた保管容器まで責任を持って行くものだと言う事なのです。
 この『フグの卵巣』が何故『糠』と言う物にに三年漬ける事によって『無毒』となるかは科学的にも証明されていない事だと言うのです。

 私が食べた感じでは『非常にしょっぱかった』物でした、でもおそらく、味わえる余裕が出来れば、何か甘味に似たものが滲んで来る物ではないかと思うのです。
 私の食べた物は、東京で手に入れた物で同じクラスの『酒のつまみ』としては高価な物でしたが、テレビなどの取材記事などで地元の子どもが食べている姿を見ると何か奥深さも感じるのです。

 この様に『フグ』と言う物は昔から食べ続けられていた様なのです。
 実際、考古学的な遺跡の発掘から観れば『フグ』は有史以前から食べられていた事は証明出来ると言いますし、『フグの毒』で一家が事故死したであろうと言う遺跡も発見されていると言うのです。
 つまり、危険な魚であったにしても『フグ』は昔から食べられて来た魚であった事は間違いがない様なのです。
 
 ところで、『フグ』の話はこれくらいにして、本筋に話を戻す事にします。
 明治時代に日本の軍隊の中で深刻な問題となっていたのが、『脚気(かっけ)』と言う病気の存在であった様なのです。
 『脚気』と言う病気は、現代の様に食物が市中にあふれ食生活が豊になった時代には想像もつかない病気であるかとも言えるのです。

 現在の私の病気療養の発露は、『脳梗塞』と言う病気の発病にあると言えるのですが、担当の医師に縁ればその『脳梗塞』の根本的原因は、『糖尿病』があると思えると言うのです。
 つまり、私の『食べすぎ』が世に言う『成人病』を引き起こしたと言うのです。
 言ってみれば恵まれすぎた食生活の果てに起きた事なのかも知れません。
 
 確かに私とすれば思い当たる事ばかりだとも言えるのです。
 思えば、今でこそ日本は『飽食の時代』等と言われ食べ物が氾濫している時代であるとも言えます。

 しかし、私が小学校の頃は東北の片田舎に住んでいたことも有り、昼時になると同級生の数が少なくなっていた様なのです。
 勿論、私がその様な事に気付いていた訳ではないのですが、後日となって思い当たる節が色々有ったのです。
 思い起こしてみれば、六十年前は誰もが満足に食べられていた訳ではなかった様なのです。

 その様な時代が、私の初めての時代であった為なのでしょうか、私が東京で一人生活を始めた時、何よりも言われた事は『食べる事さえ出来ていれば、何とかなる』と言う事だったと思うのです。
 言ってみれば田舎には食堂さえ少なかった時代ですから、先ず食を安じた人達が思って言われた事であったと思います。
 その為なのか、私は身体に不調を感じると何よりも先に食事を心がけた様な気がするのです。

 つまり、私達が育った時代は今よりも『食べる』と言う事に関心の高かった時代ではなかったのではないかと思うのです。
 少なくとも『お菓子』で、食事に代えると言う現代の子どもの様なことは無かったと思うのです。

 私にしても『ひもじい思い』で暮らし事はないのですけど田舎育ちであったことも有り、今の様に食べるもので撰ぶのに困った事はないのです。
 食べるものと言えば両手で数えるに十分なものであったと思うのです。

 つまり、時代錯誤と言われるかも知れませんが、それ程多種類のものが食卓にあった記憶はないのです。
 後日談ともなりますが『脚気』と言う病気は、そんな日本の食事の結果起きた病気で有り、おもに徴兵制下の軍隊を中心として急増した病気であったらしいのです。

 因みに、『日露戦争』では日本軍の戦死者4万7千と報告されているのですが、当時日本軍から出た『脚気患者』の数はそれを大きく上回り21万1千名と報告されているのです。
 そしてそのうち2万7千8百名の方々の死亡が記録されているのです。

 この数字が如何なるものであるのか?現代では日本も人口は億と言う数字を見ることにもなりますので然程の感覚はないかも知れませんが、当時の日本の人口は約6千4百万と記録され、日本の兵力も平時は約20万と記録されているのです。
 つまり、当時の将兵はかなりの確立で『脚気患者』でもあったと推察されるのです。

 実際、『脚気』と言う病気はどの様な病気でどの様にして死に至るかと言いますと、具体的には『心不全』と言った末梢神経障害を起こして下肢にむくみが発生し、痺れが起きて来ると言う物であったと言う事なのです。
 つまり、下半身に障害が出てくる事から『脚気』と言う名前がうまれたと言う事なのですが、症状が進行しますと心臓機能の障害などを起こす事になり、重傷者は死に至ると言うものであったと言われているのです。
 つまり、兵隊としては走れなくなる事になりますから、歩兵としては使い物にならなくなってしまう病気であった様なのです。

 事実、日本に派遣されて来た海外の『観戦武官』の報告の中には『日本兵の中には不真面目な兵も多く、その者達は臆病なな突撃を行っている』と本国に書き送っている人もあると言うのです。
 おそらくその『観戦武官』の目には、ヨロヨロと走っている歩兵の姿がその様にうつっていたのだと思います。

 確かに、私の様な身体を持つ身になって見るとよく判るのです。
 私は『脚気』でこそ有りませんが、症状は似たような状態になっていると言えます。 『脳梗塞』で右半身に不随な所が生まれ、『抗がん剤』の副作用で体力が非常に落ちているのです。
 その様な身体になりますと一番感じる事は足に不安を覚え、『走る事が怖い』と言う事が起きて来るのです。
 つまり、下肢に一番の不安を感じる事になり『全力疾走』等およびもつかなくなり、走ってもおそらくヨロヨロと思うのです。

 ところが現代の人はそんな意識が有りませんから、戦争の突撃場面ともなると必死の形相で激しく突撃する場面ばかりを連想しがちになる。
 しかし、実際は違っていたのではないかと思うのです。
 多くの『脚気』を患っていた兵にはしたくても出来ない事であったと思うのです。
 それ故、『脚気』と言う病気は軍隊にとっても深刻な病気であったと思うのです。

 それでは、当然何故この様な病気が起こる様になったかと言う事になります。
 その原因は今日では、軍隊の『白米食』であったと言われている様なのです。
 つまり、明治政府は世界的な『国防』と言う意味から、日本の『武士制度』を廃止して国民皆兵による軍事制度の確立を目指しました。
 それが男子国民に対する『徴兵制度』として現われて来たのです。

 この『徴兵制度』自体、決して多くの国民に喜ばれたものではなかった様なのですけど、現象的なものとして先ず顕著に見られた事は、『軍隊に入れば、三食白い米が食べられる』と言う事であったそうなのです。
 いわゆる『銀シャリ』が食べられる、それが軍隊に入る事の成人男子の一番良い事の様にも捉えられていた様なのです。

 確かに、『徴兵制度』と言うものは各地方の戸籍名簿によって行われた為、数では勝る農村出身の若者も多く徴用されたと言います。
 その様な人達にとって軍隊と言う所は『三食食べられる』別天地であった様なのです。
 例え『軍事教練』は厳しくとも、兵によっては食べる事さえ儘ならなかった『白米』を日に三度食べられたのです。
 我慢さえ出来れば別天地でもあったと思います。
 それ故に『地方出身者が多い部隊は強い』と言う噂も立ったのだと思います。

 因みにある『日本の食事の歴史』を研究している人の話では、現在の様に国民が一様に『一日三食』食べる風習が安定して来たのが確認できるのは、明治以降の事であると言う事です。
 それも、現象的には『軍隊帰り』の人々がもたらしたものと考える方が無理が無いと言うのです。
 つまり、当時の農村では殆どが二食であり、『米』を作っていたとしても殆どが『税金』に当てられ、冷害や飢饉ともなれば娘を売る事によってそれに代える事が行われていたと言うのです。

 ですから農民が兵隊に行くと言う事は、農村にとっては働き手を失う事でも有り、喜ばれた事ではなかった様なのですが、一方では現金収入がある事にもなり、『痛し痒し』と言う事でもあった様なのです。
 この様なことも有り、農村出身の兵の多くは出来るだけ現金を故郷に送る事を考えた様なのです。

 その様な体制下の兵隊が唄った歌に『いやじゃありませんか軍隊は、金の茶碗に竹の箸 仏様でもあるまいに 一膳飯とは なさけなや』と言うのがあるのです。
 つまり、兵としての食事に配慮して副食代として支給される現金をも故郷に送る兵も多く出て来て、自身は『一膳飯』で済ませる兵隊が多く出て来たと言うのです。
 彼らとすれば『白いおまんまを食えるだけで幸せ』と言う物でもあったのでしょう。

 『脚気』と言う病気の原因を、こういった食事事情にあると言う人達は多い様なのです。
 なんでも、その頃のある『医師』の話では、欧米に英語で『脚気』に当たる『Benben』と言う言葉はある物の、実際の現場の医師には『脚気』と言う病気に対する知識は殆ど見られず、彼等から『脚気』と言う病気を学ぶ事は不可能に近い事であったそうなのです。
 つまり、『脚気』と言う病気は日本ならではの病気であったとも言えそうなのです。

 確かに日本の色々な記述から判断すれば、『平安時代』から『脚気』と言う病気は存在していた様に想像出来ると言う事なのです。
 ただ、当時『脚気』に掛かったと思われる人達は、食生活が『白米』を食べられる人達、つまり権力者を中心に起きた病気であった様なのです。
 はっきりとした記述はない様なのですが、『白米』を食べられる状態でなかった人達(庶民)には起こり得なかったと言う病気であった様なのです。
 すなわち権力者の位置にいた人達以外は、凡そこの様な病気にかかる人達はいなかった為、当時は話題になる事はなかったと言われるのです。

 時代は下って大分後の事になりますが、この事を物語るものが江戸時代の『江戸患い』と言う『脚気』の病名なのです。
 つまり、江戸時代も百年余を過ぎると世情も経済も安定し、商人や武家の中には日に三食、白米を食べる事の出来る人達も多くなって来たと言うのです。
 この結果、起きて来た病気に『江戸患い』と言う名が名付けられ、その治療法として『そば』を食べる事が言われていたと言うのです。
 この為に江戸に『そば』が広まったと言う事なのですが、発生した所が江戸に限られていた為この名が残るのです。

 つまり、日本をあえて『米文化の国』と言うならば、この頃からの日本の文化は確かに『米食文化』とも言えたのかも知れません。
 しかし、地域は一部的な江戸を中心とする社会であって、全国的に観れば農村地帯で米を主食としていたところは本当に少なかったと思われるのです。
 事実、江戸に近い関東の農村の食文化にそれを見る事が出来ると思うのです。
 私の見方では日本も『粉文化の国』なのです、それも欧米諸国には見られない多くの物から『粉』を作り出していた『粉文化の国』と言えるのではないかと思うのです。

 いわゆる関東の農村の『御呼ばれ料理』と言う物に『米』と言う姿は殆ど観られないのです。
 関東の殆どが『粉』を原料とする『うどん』であった様なのです。
 現在の世の中では『うどん』と言えば関西のイメージとも言えますが、関東を中心とする地域も実際は『うどん』と言う物が農村の中心食であった様に思うのです。

 つまり『米』はあくまで年貢(税)の為に作られたものであり、余程の豊作でもなければ作り手たる農民の口には入らなかった物の様なのです。
 いわゆる徳川幕府の『士農工商』の身分制度はそれが故に位置づけられたものの様だったに思われるのです。
 各地に残る古文書等には、その様な記録が残っていると言っても良い様なのです。

 なんでもこの事は、権力者達からの布令からも伺い推察出来ると言うのです。
 私は『元酒屋』ですのでよく聞く事なのですが、日本の諸藩では、冷害などで『米』が不作になりますと一番先に出されるのが『酒造り禁止』のお触れであったと言います。
 つまり、『米』を隠しておいて『酒を造る』事等とんでもないと言う事で、このお触れが農民達納税意識を高める元ともなって行ったと言われている様なのです。
 日本は歴史的に見ても『飢饉』と言う物の多かった国でもあった様なのですが、そんな中でも生きて来れたのは、ベースに『粉文化』があったからであり、一般に言われる様に『米文化』が主流なら日本民族はとっくに滅亡していたのではないかと思うのです。

 視点を変えれば、農民は『米』を税として納めなければ『田の神』鎮守様も祭れない事になり、何よりも当時の社会体制(幕藩体制等)を揺るがすと考えられていた様なのです。
 勿論、食べ物として最高の美味である『米』を食べる憧れは、日本人なら誰も持っていた様で、この姿が如実に明らかになって行ったのが、明治政府の布告した国民皆兵の『徴兵令』でもあった様なのです。
 ある意味では明治政府は、農民達を『米』で釣ったとも言えます。

 ところで『脚気』の話は未だ終わりません。
 言わば、この結果『兵隊の職業病』の様に『脚気』と言う病気は蔓延した様なのですけど、当時の日本陸軍と日本海軍とではその対応が全く違っていた様なのです。
 『脚気』と言う病気の原因を何処の求めたかが違っていたとも言えそうなのです。

 つまり『脚気』をアカデミックに『伝染病』の様に見た陸軍と、単に『栄養上の問題』と見た海軍があったと言えるのです。
 結果的に観れば、『脚気』と言う病気は『ビタミンB1』不足とされていますので、海軍の思考が正しかったと言えますが、この問題が陸軍と海軍の対立関係に油を注いだ事になったのは事実であった様なのです。

 でも、ある意味では、海軍の方が対処し易かった事は事実であった様なのです。
 日本海軍には具体的にこの様な歴史があると言うのです。
 それは明治15年に海軍が9ヶ月の海外練習航海から帰国した時の話です。
 帰港した軍艦の乗組員378名の内168名が『脚気』と診断され、内25名が死亡していたと言うのです。
 この様な状態となって海軍では『この有様では戦闘はおろか、航海さえ出来かねる、このままでは戦わずして壊滅してしまう』となったと言うのです。

 この様な時にイギリス留学から帰国した海軍軍人が『高木兼寛(かねひろ・1849~1920)』が乗り出す事になったと言うのです。
 彼は後に『東京慈恵医大』を創設した事でも知られますが、彼は留学中イギリスでは『脚気』の患者が見られなかった事に着目して、日本人とイギリス人の食事の違いに気づいたと言うのです。
 そして、今度は同じ9ヶ月の海外練習航海を洋食を導入して行ってみたところ、患者が一人も出なかったと言うのです。

 この事から海軍は、食生活と病気の関係に気づき始め、洋食の導入を始めたと言うのです。
 なんでも、その頃の海軍の食事は戦闘食とされていた『にぎりめし』が中心であった様なのです。
 陸軍で言えば『一膳飯』と同じ状態であったと言えますが、洋食に変える事は施設の面でも大変な事であったと言います。
 でも、状況を見ればはっきりした事でもあったので改革に踏み切れた様なのです。 その後、『日本人にパンは向かない、パンでは力が出ない!』等との紆余曲折はあった様なのですが、その曲折も色々な工夫が加えられて直されて行ったと言うのです。

 因みに日露戦争の連合艦隊司令長官『東郷平八郎(1848~1934)』がイギリス留学の際に食べた『ビーフシチュー』が忘れられずそれをリクエストしたところ、材料が揃わずに創った物が『肉じゃが』であったことは有名な話とされている様なのです。
 尤も、『肉じゃが』どこの港に寄航してる際に作られたかは諸説があって、今は『村おこし町おこし』故なのでしょうか、『舞鶴』と『呉』が争っていると言う事なのです。

 ついでに言うならば、『カレーライス(ライスカレー)』も同じ頃に作られ始めた海軍発祥の食べ物とされている様なのです。
 つまり日本の『カレーライス』の元祖とも言われる『海軍カレー』と言う物は、先に書いた『高木兼寛』がなじみの薄かった『カレー』を『脚気』予防に使おうとして開発したものだと言われているのです。

 ただ、一般に『カレー』と言えばインド等のアジアの国々の料理が連想されがちになるのですが、日本の海軍発祥の『カレー』と言う物は、これもイギリス文化から伝わった物で、イギリス流のカレーとも言えますが、どうやらこれも元は『ビーフシチュー』に源を発したものではなかったかと思います。

 ついでに又余計な事ですが、海軍発祥の『肉じゃが』のレシピを目にしましたので書いておく事にします。
 これは『海軍厨業管理教科書』によるものです。
     『肉じゃが(甘煮)の作り方』
 材料  生牛肉・蒟蒻・馬鈴薯・玉葱・胡麻油・砂糖・醤油
    所要時間
    1、油を入れ送気
    2,3分後生牛肉入れ
    3,7分後砂糖入れ
    4,10分後醤油入れ
    5,14分後蒟蒻・馬鈴薯いれ
    6,31分後玉葱入れ
    7,34分後終了
 そして、備考として
    1、醤油を早く入れると醤油臭く味を悪くする事がある。
    2、計35分と見積もれば充分である    とあるのです。
 とにかく、これが日本で一番先に始まった『肉じゃが』の造り方でもあった様なのです。

 ついでながら、私の手元には昭和十二年に発行された『軍隊調理法』と言う本が有ります。
 この本は『日清戦争』や『日露戦争』で兵士の『脚気』に悩まされ続けた『大日本帝国陸軍』が、その原因が細菌による感染症ではなく『ビタミンB1』の欠乏によるものであると『鈴木梅太郎(1874~1943)』のビタミンの研究によって明らかにされてから、安価で栄養価に富み調理も簡単なものとして作成し、各部隊に教本として配布されたと言うものなのです。

 当時の価格は一円三十銭と表示されておりますが、おそらくこれは陸軍・海軍の調理法等を一般に知らしめる為に出された物であった様なのです。
 少なくとも、これに紹介されている言わば『日本風カレー』を見てみると、戦前の調理法もここまで来ていたのかと思わされますので、その『カレー汁』と言う項目を開いてみる事とします。

     『カレー汁』   熱量  324カロリー 蛋白質18,50
 材料  牛肉(豚肉・ウサギ肉・ヒツジ肉・鶏肉・貝類)  70グラム
      馬鈴薯 100グラム  人参   20グラム  カレー粉 1グラム
      玉葱   80グラム  小麦粉  10グラム  ラード   5グラム
      食塩   少量
 準備
     イ、牛肉は細切りとなし置く、
     ロ、馬鈴薯は二糎角位に、人参は木口切りとなし、玉葱は堅四つ割り
       に切り置く
     ハ、ラードは煮立て小麦粉を投じて撹拌し、カレー粉を入れて油粉捏を
       造り置く
 調理
     鍋に牛肉と少量のラードと少量の玉葱を入れて空炒し、約350竓の水を加え、先ず人参を入れて煮立て、馬鈴薯、玉葱の順序に入れて食塩にて調味し、最後に油粉捏を煮汁で溶き延ばして流し込み撹拌す。
 備考
     イ、温かきご飯を皿に盛りて、その上よりかくればライスカレーとなる。
     ロ、本調理は又パンの副食に適す。
 とあるのです。

 つまり、今や『国民食』とも言われる『ライスカレー』の元々の姿は『小麦粉』を炒めて使う事に有り、その基本的姿は此処にあったと言える様なのです。
 思えば、私が社会に出た頃の田舎の駅前の食堂に見られた『黄色いカレー』は皆この方法で作られた『ライスカレー』であった様にも思うのです。

 ともあれ、『日露戦争』の頃には『脚気』の原因が何である物か決して判っていた訳ではない様なのですが、ともかく航海を基本的業務とする海軍は『高木兼寛』の考え方が主流となって行き、結果的に『脚気』の予防に効き目を表わしたのだと思います。
 日露戦争の時の日本海軍には『脚気』の発病者と言うのは殆どいなかったと言う事なのです。

 これに対して、日本陸軍の考え方は違っていた様なのです。
 『脚気』の被害がそれだけ深刻な問題となっていた事でも有りましょうが、『脚気』と言う病気の原因を『細菌』によるものと考えていた為の様なのです。
 冷静に見た場合、その立場で主張した人の責任と言うよりも、これは日本海軍がイギリス海軍の影響を大きく受けていた事に対し、日本陸軍の手本となったのがドイツ陸軍であったことも大きく影響している様にも思うのです。

 つまり、日本は目覚しい進歩を遂げているヨーロッパに優秀な人材を派遣してその習得に努めたと言うのですが、ドイツの医学は学術的であったのに対してイギリスの医学は原因の追究よりも治療に重点を置く物であった様なのです。

 当時陸軍留学生としてドイツに渡った『森林太郎(森鴎外・1868~1922)』は帰国後当然の事ながら『脚気』にも取り組む事になった様なのです。
 『脚気』の病状から、その原因は『伝染病』の様な物と認識していたと言われるのです。
 これは海軍の留学生としてイギリスの『セント・トーマス病院』にあった『高木兼寛』との決定的な違いにもなった様なのです。
 確かに、陸軍と海軍と言えばどちらが優位と言う事はないのですが、数の上では陸軍の方が圧倒的なものともなるのです。
 陸軍とすれば、海軍に負ける訳には行かなかったのかも知れません。

 すなわち、海軍の『高木兼寛』が『脚気』の原因が食事から来る物としたのに対し、陸軍の中心人物となっていた『森林太郎(鴎外)』はドイツの『細菌学』を中心とした思考で、『脚気』は食事等では簡単に病気が治るはずは無いと考えた様なのです。
 この『森』と『高木』の対立は当時の語り草になるほどの話題を提供した様なのですが、最終的にも『森林太郎』が自説を曲げる事はなかったと言うのです。
 何しろ『森鴎外』は明治にあっては『夏目漱石()』と並んで『文豪』とも呼ばれた人なのです。
 強情さに於いても他人に譲るところは無かったのかも知れません。

 ともあれ、陸軍の内部特に現場では軍医達に徐々にでは有りますが、この『脚気』の原因が『食べ物』にあるのではないかと言う考え方が起きて来ていたそうで、『江戸患い』に病状が非常に似ている事から『白米食』に『蕎麦』に当たる『麦』を混ぜて『麦飯』にする提案も生まれて来たと言います。

 しかし、『森林太郎』は軍医総監となっても自説に固執し『麦』の必要を認めることは無かったと言うのです。
 彼一人に責任を持って行って良いものかは解りませんが、日本陸軍に入り『脚気』になった人は、毎年万と言う数字を示し、その死者も多く出て『結核』と並んで日本の『二大国民病』と言われ続けていたのは確かであった様なのです。

686 NHKドラマ『坂の上の雲』を見てⅡ

 ところで『下瀬坂』の名前の由来の基ともなっている『下瀬火薬』と言う『火薬』と言う事になるが、この『火薬』は明治の大日本帝国海軍技師『下瀬雅充(しもせまさちか・1859~1911)』が苦心の末に実用化した『火薬』として知られます。
 一部の資料には彼が発明した物ともなっている様なのですが、殆ど同時期にフランス人の『ウエジーヌ・チュルパン』が『ピクリン酸』と言う物質から同じ様な爆薬を開発し『メリニット』と名付けられ、フランスはこの火薬を各国に売り込んでいる事が記録されているのです。

 実際、この売り込みは日本にも行われ、その爆発の強さには日本も食指を動かされた様なのですが予算措置などの面から諦めるに至ったと言う事があったと言うのです。
 ただ、この時同席した海軍武官はこの『火薬』の爆発力の凄さには執着したらしく、自分の爪の間に忍ばせて持ち帰って来たと言うのです。

 そして、持ち帰って来た『火薬』を調べてみたところ、『ピクリン酸』を原料としている火薬である事が判り、日本でも研究中の『火薬』と同質のものである事が判って、研究に拍車がかかったと言う事なのです。
 この『ピクリン酸』と言う物は『石炭』から取れるもので、平和目的とすれば『確かな消毒剤』としても使えるものであったと言う事なのです。
 しかし、『火薬』の原料として使った場合は爆発力には定評がある物の、元々が大変不安定なもので、常に少しの衝撃で自爆事故を起こす火薬として知られていたと言うことです。

 ですから『下瀬雅充』の本当の功績は『火薬』を作ったことよりも、むしろ実用化が難しかった『火薬』を実際に使える様にした事にあり、『下瀬坂』はその生産が行われていた日本海軍の滝野川工場があったことから名付けられた様なのです。
 聞けば絶えず自爆事故が頻発したらしく、滝野川工場も日露戦争が終わると地方に転居その後には『東京外語学校(後の外語大学)』が建てられた様なのです。
 『火薬工場』とは元々危険な工場であった様で、それを偲ばせる様に、その火薬工場は山(丘)の陰に建っていた様なのです。

 『火薬』と言う物は今日では色々な物が知られます。
 よく知られる物としては『黒色火薬』や『NTT火薬』等の名前が知られますが、これらの『火薬』には其々の特質があり、『火薬』と言っても必ずしも皆同じ様に使えるものでは無いと言う事なのです。
 そして、『火薬の専門家』と言う物が存在するほど、難しい知識が要求される物の様なのです。
 私は今までその様な思いになった事はないのですけれど、『火薬』と言う物は本質的には『薬』でもあったので薬剤師の様な方々が扱うべき物でもあったのかも知れません。

 つまり、『火薬』と言う物は、物によって其々原料も違い、その使用目的等を考え合わせて観ると、とても私の様な『火薬』と言う一言では収まりがつくものではなく、むしろ分野は『薬品』であると言える様に数限りなくあると言っても良い物の様なのです。
 そして何よりも大切な事はその『火薬が安全に扱えるか』と言う事であるそうなのです。
 
 確かに『火薬』と言う物を見直してみれば、その最大のキーポイントは『出来るだけ安全に』と言う事にあるのかも知れません。
 実際、『火薬』に因む発明として最も名高いものは『ノーベル賞(1901~)』の元とも成っている『アルフレッド・ノーベル(1833~1896)』の『ダイナマイト』の発明(1875)と言う事になると思うのです

 つまり、『ノーベル』は1846年に発見された『ニトログリセリン』の爆発力に着目し、それまで爆発物としては使い物にならなかった物を、『珪藻土』に沁み込ませる事によって『ニトログリセリン』を安定化し、更に『雷菅』を発明して『ダイナマイト』としたのです。
 つまり、『ダイナマイト』と言われるものは『ニトログリセリン』を安全な『火薬』とした物に他ならないのです。

 『下瀬火薬』の開発者と言われる『下瀬雅充』と言う人は、広島藩の鉄砲役の長男として広島市鉄砲町に生まれた人であったと言いますが、当初は彼自身が虚弱体質の人間として生まれた為、本来の『鉄砲方』の様な仕事には着けず、その為印刷局に勤務する身となり紙幣用のインク等を研究していた人であったと伝えられるのです。
 つまり、言うなれば印刷局で『薬品開発』の仕事をしていた様なのです。

 言わば『印刷染料』の研究に情熱を注ぐ事になったのだと思いますが、彼のこの研究はとても繊細なインクの開発に結びつき、それには『偽札』防止の効果も認められたと言うのです。
 彼自身の評価もこれによって高くなった物であったと言うことなのですが、この研究は『ピクリン酸』を研究する物であった様なのです。
 この事から彼は海軍の技官として迎えられる事となり、以後は『ピクリン酸を使った爆薬』の研究に取り掛かったと言う事なのです。

 『ピクリン酸』と言う物は、石炭から産出される物で、その後に火薬の主流として作られる様になった石油から作られていると言える『TNT火薬』とは大分雰囲気の違う『火薬』であると言えるかと思います。

 つまり、単に『火薬』と言っても色々あり、歴史的に観れば、中国の唐の時代に書かれた書物に『硝石に硫黄や炭を混ぜると爆発し易い物になる』と言う事が書かれていると言います。
 言わば、この『硝石』を使ったものが従来の『黒色火薬』と呼ばれた物である様なのです。

 しかし現代では、石油から『ニトログリセリン』を作り出し『TNT火薬』にするものと、石炭から『ピクリン酸』を抽出し『メリニット』とか『下瀬火薬』と呼ばれたものがあると言いますし、その他にも現在では『薬品』の研究等から多種多様な『火薬』が作り出されていると言うのです。
 ですから、現在では『火薬』と言っても、ある目的を持った物以外は『火薬』として存在する事はなく、その都度目的に添って造られるものの様なのです。

 因みにこの『石炭』を原料としているものは、色が黄色味を帯びている事から『黄色火薬』とも呼ばれていると言う事です。

 ところで、『ピクリン酸』を原料とする爆薬はどの様な爆発物であったかと言いますと、その性質は、乾燥していると直ぐに爆発してしまう性質の物であった為、常に15%~20%の水分を含ませていなければならず、かといって水分が多すぎると爆発力が落ちてしまうと言う『爆薬』としては非常に取り扱いが厄介で危険なものであったと言う事なのです。

 この為、この事による『自爆事故』も頻発し、『下瀬火薬』開発後も事故は頻発した様なのです。
 現実に『日本海海戦』で連合艦隊の旗艦ともされた戦艦『三笠(15140t)』は、日露戦争後の1905(明治38)が佐世保港内で弾薬庫の爆発によって自沈して339名の死者を出しているのですが、この時の原因はこの『下瀬火薬』の自爆ではなかったかと言われている様なのです。
 戦艦『三笠』だけでなく火薬庫の自爆によって廃船に追い込まれた艦艇は非常に多く、これが『下瀬火薬』が使われ続けられなかった理由なのかも知れません。

 もっと具体的に言えば、『ピクリン酸』には鉄などの重金属と非常に敏感なる性質があり、爆薬内に乾燥等で隙間が生じると、少しの衝撃でも直ぐ爆発してしまうと言う事でもあった様なのです。
 つまり、前述した様に常時水分を含ませていなければならない物で、さりとてその水分の割合が多すぎると爆発力が落ち、水分の割合が少ないと少しの衝撃でも自爆の危険性が高い爆薬でもあった様なのです。
 それが、大きな効果が望めるも『ピクリン酸』で作った火薬が順調に普及しなかった原因でもあった様なのです。

 この『下瀬火薬』は明治26年(1893)に『ピクリン酸』にワックスを混ぜる事によってこの危険性をかなり下げる事に成功し、実用化に目途をつけたと言われ、火薬は開発者の名前を取って『下瀬火薬』と名付けられたと言うのです。
 元々『ピクリン酸』によって作られる火薬の爆発力には各国が注目していたと言うのですが、実用化に漕ぎ着けたのは、日本が最初であり、その効果が具体的に認められたのは『日露戦争(1904~1905)の日本海海戦(1905,5,27)』であったと言える様なのです。

 明治時代の日本海軍は、この『下瀬火薬』を『炸薬(さくやく)』に使い、『日露戦争(1904~1905)』のロシア戦闘艦の戦闘力を奪ったのです。
 因みに『炸薬』とは、砲弾を破裂させる爆薬であるそうで、弾丸を飛ばす火薬ではない『火薬』なのです。
 因みに『下瀬火薬』をその様に発射の為に使ってしまうと砲身の中で爆発を起こしてしまう危険性がとても大きい物であったと言う事なのです。

 その為、日本海軍の砲弾の威力は特に強烈な弾丸とは言えなかった様なのですけれど、着弾すれば破裂して砲弾は3000余の破片となって飛び散り艦上の敵兵を殺傷したと言いますし、おまけに着弾地点は3000度以上の高熱に襲われる事になったと言ううです。
 つまり、一端着弾すれば、こと如くをなぎ倒してしまった強烈な『火薬』でもあった様なのです。
 
 その為、日本海海戦の『バルチック艦隊』のロシアの将兵は大いに戦意をそがれる事となったと言うのです。
 すなわち、被弾すれば傷ついても戦う事すら許されない状態に陥るものであったと言うのです。

 因みに、『日本海海戦』で日本海軍の戦法として名高い『丁字作戦』の先頭艦を勤めた旗艦『三笠』も、この戦法の為にロシア艦隊のの集中砲火を浴びたのです。
 『三笠』はこの時30発以上も被弾し、被弾した数も艦隊の主力艦の中で一番多かったのではないかと言われている様なのです。
 戦闘を終えて帰国した『三笠』を見て『ボロ雑巾』の様であったと表現した記者も多かった様なのです。
 つまり、戦艦『三笠』が敵前にて回頭した時は、『三笠』自身は一発の砲弾も発射出来る状態にはなく、ただロシア軍の集中砲火に晒されるばかりであったと言いますから被弾した三十数発は皆この時の物であったと思われます。

 しかし、その後のロシア艦艇に観られる様に戦闘意欲は失われず、乗組員は最後まで戦い抜いているのです。
 実際日本海海戦で戦艦『三笠』はどれ程の死者話出しているものかはデータが手元にないので判りませんが、日露戦争中の『三笠』は、凡そ860名の乗組員の内113名の死者を出していると言うのです。
 決して、損害は低いとは言えなかったと言える様なのですが、それでも戦い続けられたと言うのは、精神力の為とばかりは言い切れない様な想いがするのです。
 つまり、この事が『下瀬火薬』を評価する理由ともなっている様なのです。

 私は中学の頃だったと思いますが、この戦闘を取上げた映画を見たことがあります。
 確か、タイトルは新東宝映画の『明治天皇と日露大戦争』と言う物で、確か『日本人の5人に一人は見るもの』と銘打って公開された物であったと思うのです。
 他聞に洩れず現在のネットと言うもので調べてみますと、公開されたのは昭和32年(1957)で『日本で最初のシネマスコープ』とも言われ、銘打たれた様に結果的に観客動員数は凡そ2000万人と言いますから、本当に5人に一人は観た結果になったと言うのです。

 時代が違うと言う事は言えそうなのですが、この数は44年後(2001)に公開された『千と千尋の神隠し(長編アニメ・監督 宮崎駿)』の2300万人に破られるまでは日本一の記録を持つ映画であったと言うことなのですから、私の様に記憶にある人も多いのかも知れません。

 その様な事があった為なのでしょうか、これに関わる一般の評判として記憶に残っているのは、明治天皇として登場した『嵐寛寿郎(1903~1980)』が『やけに明治天皇の御真影に似ている』と言う噂とか『日本海海戦で日本海軍が勝てたのは砲煙が黒くなく砲撃に邪魔にならなかった為なのだ』等の評価を聞いた記憶が残るのです。

 つまり、一時は日本の火薬は燃えると白い煙を出したものでロシアの黒い煙を出す物と比べ優秀な『火薬』であったと言う話が実しやかに信じられていた節があると言えます。
 どうやら『下瀬火薬』の特徴として白煙をあげると言う事が言われて為『バルチック艦隊』の砲弾の様に黒煙で先の視界が遮られて、相手の確認に戸惑う事は無かった等と誤記されている物が多い様なのですが、実際は日本海軍の砲弾も黒い煙を挙げており、彼我の砲弾の発射の際の差にそれ程の差は無く、後の世の人達の想像による産物であったと言うのが正しい事の様なのです。

 むしろ日本海軍の訓練度が高かったというべきであった様なのです。
 本来の日本の訓練を厳しくすると言う意味は此処にあると言う事なのです。

 何しろ、数字的なものを比べて見ただけでは日本海軍の敗戦は必至と言えたと言うのです。
 日本の持てるものとロシアの持てるものを数字的な物だけを羅列すれば、
           日本          ロシア帝国
   面積    38万km2      200まんkm2
   人口    4600万        1億人以上
   陸軍    100万人       200万人
   海軍    23万トン(戦艦6) 51万トン(戦艦15)
と言う状態にあったと言えるのです。
 つまり、日本とロシアの国力差は総合しても10倍以上にもなり、世界中のどの国も日本が勝つと考えた国は一国もなく、日本の指導部さえ勝てるものと考えていた人は一人も居なかったと言うのです。

 更に詳しく見てみれば、日本海軍の相手と目されていたアジアにいる『ロシア太平洋艦隊』の戦力は戦艦7隻を中心とする凡そ19万トンであったと言いますから、これだけなら何とかなるのではないかと思われていた様なのです。
 しかし、ロシアにはロシア西海岸のバルト海に戦艦8隻を擁する凡そ16万トンの『バルチック艦隊』が存在していたのです。
 この両艦隊が、もし合流して攻め来れば結果は判り過ぎる程確かなものとされていた様なのです。

 総ての要件を無視した上日本軍として出来うる事は、訓練しかなかったと言う事なのかも知れ無いと言えるです。
 実際に、日本海軍の訓練の厳しさは後に作られた軍歌『月月火水木金金』で知られますがこれは日露戦争の直後、第一艦隊司令長官を務めた『伊集院五郎(1852~1921)』が部下に課した方針として知られる言葉でもある様なのです。

 彼は明治10年(1877)にイギリスに留学し、その後イギリス戦艦『トライアング』に航海士として乗組み実際のイギリス海軍を体験して来た為日本海軍でも博識の将校として知られていた人でもあると言います。
 日本には明治16年末に帰り海軍中尉として任官したと言いますがその後も度々英国に出張したと言いますから、日本海軍としても特別な人であった様なのです。

 彼の業績として、今に残るものとしては『伊集院信管』の考案が上げられると言うのです。
 『伊集院信管』と言うのは砲弾が飛んでいる内に尾部のネジが回転して安全装置が外れる仕掛けであるそうで弾丸の底部についていた装置でもあるそうです。
 非常に敏感な装置で砲弾が何処に当たっても爆発を引き起こしたと言いますが、当たらないまでも近くに着弾すれば『下瀬火薬』の威力を増大する働きを助ける事になった装置であったと言うのです。
 つまり、海面に着弾しても爆発し近くのロシア兵の生命を奪って行ったと言うのです。
 その為、日本海海戦の勝利の陰には『下瀬火薬』があるが、その陰には更に『伊集院信管』があると言われ、『伊集院五郎』は『日本海海戦勝利の陰の功労者』とも言われたと言うのです。

 それはともあれ、『伊集院五郎』の博識さは音楽の方にも及んでいる様なのです。
 明治時代の不思議さは、欧米の文化をなんでも取り入れて来た事にあると言える様なのですが、『音楽』などはその際たるものと言えるのです。
 一見、政府の方針として『欧米に追いつき、追い越せ』と言う事からすれば無関係な分野とも見えるのですが、音楽教育にも当たり前に接していると言えるのです。

 いわゆる『文部省唱歌』の初めての設定は1910年(明治43)まで待つ事になるのですが、それ以前にも『翻訳唱歌』などを使って楽器もない中で音楽教育は行われ始めて来た様なのです。
 因みに、日本で最初の洋学音楽の作曲家と言われる『滝廉太郎(1879~1903)』が東京音楽学校を卒業したのは1898年(明治31)ですし、彼の作品として知られる『花(1900)』『荒城の月(1901)』の作品となっているのです。

 この様な意識は武人としての『伊集院五郎』にも無関係あった訳ではなく,それを示しているのが郷土の後背でもあったと言われる『瀬戸口藤吉(1068~1941)』の戦艦『三笠』への配置であったのだと思います。
 当時軍令部次長であった『伊集院五郎』にとっては、司令官であった『東郷平八郎(1848~1934)』への紹介が目的でもあった様なのです。

 『瀬戸口藤吉』が『三笠』に乗組む事になったのは『日本海海戦』が終わった直後であったと言いますが、『海軍軍楽士』として乗組む事になったと言うのです。
 当時は海軍に於いても『軍楽』の必要が見直された頃であったと言いますが、問題も多かった様で彼は『海軍軍楽隊への弦楽の導入』『東京への軍楽隊の分遣隊設置』『海軍軍歌の整備編纂』に努力したと言うのです。

 後の1901年に『軍満マーチ』の名前で知られる『軍艦行進曲』等を作曲し、日本の『行進曲の父』とも言われた『瀬戸口』にとってはこの戦艦『三笠』での『東郷平八郎』との出会いがその後の彼に大きな影響を与えた事は間違いのなかった事の様なのです。
 因みに『日露戦争』後の1905年(明治38)に戦艦『三笠』が佐世保港で爆沈し、将兵339人が殉職する事故がおきた時、『東郷平八郎』は出張で海外におり、『瀬戸口藤吉』は所要で上陸をしていて難から逃れたと言うのです。

 『日本海海戦』の時の参謀『秋山真之(1868~1918)』は、直前に他艦の艦長として赴任していたと言いますが、暫し絶句何も言わなかったと伝えられるようですが、一緒に『三笠』艦上にいた人達に思いを馳せたのかも知れません。
 彼を良く知る人の話では、これが彼が退役後、宗教研究に没頭する一因となった事件ではなかったかと言う観測が多い様なのです。

 話を『日本海海戦』時に戻します。
 日本海軍に黒煙による被害が少なかった事を言うならば、それはむしろ日本の艦艇とロシアの艦艇の速度の差にあったのではないかと言う事なのです。
 つまり、日本の艦艇は殆どが18ノット以上20ノットの速度が普通に出せたのに対し、ロシアの艦艇は自国生産の新鋭艦『クーニャージ・スワロフ(835名乗組み・14,400t)』でも18ノットが最高速度であったと言う事なのです。

 すなわち、艦艇を外国に発注するその国以上のものを期待する事は無理と言える以上、彼我の艦艇の差を求めることは無理な事であり、後は購入したその国でどの様に性能を高めて行くかに掛かっていた様なのです。
 その為各国は様々な角度から工夫を加えていた様なのですが、明治の日本も、殆どの艦艇をフランスやイギリスの建造に頼っていた事から独自の工夫を艦艇に加えていたと言うのです。

 因みに、当時の艦艇はその速度も、『日清戦争』で主力艦であった巡洋艦『敷島(4,217t)』や『松島(4,217t)』は16ノット、そして『日露戦争』の主力艦の戦艦『富士(12533t)』『三笠(15140t)』『敷島(14850t)』『朝日(15200t)』『初瀬(15000t)』の速度は、元々は18ノットであったと記録されているのです。

 これでは、当然の事ながら優位な戦いは出来ない事にもなり、本当に様々な面から工夫が加えられていた様なのです。
 具体的には海軍技師『宮原二郎』が開発した『宮原式汽罐』を搭載する事によって、世界でも速度に於いてだけはトップクラスの能力を持つ軍艦として行ったと言う事なのです。
 言ってみれば16ノットクラスの艦隊と20ノットクラスの艦隊との決戦が行われたと言う事なのです。

 巡洋艦の『厳島』や『松島』は、日清戦争の際にドイツで生産された清国の主力艦『鎮遠(7355t)』や『定遠(7355t)』等に対応すべく作られたものでしたが、日露戦争当時は、最早旧式艦ととなっており、岐路に立っていた軍艦であったと言う事なのです。

 言わば『大艦巨砲』を志向する時代にあって、最早旧式戦艦と言えるものであったと言えるのですが、さりとて『日清戦争』の時代は清国の主力艦に対抗する為に大きな無理の中で作られた軍艦であったと言えるのです。
 せめて最大出力を上げて『巡洋艦』としては使いたい意識が軍部にはあった様なのです。

 結果的に『宮原二郎』が開発した『宮原式水缶』を搭載する事によって速度16ノットを20ノット以上のの軍艦にしたと言うのです。
 『宮原式水缶』は具体的には蒸気機関車の『水缶』と言う様な物で小型であり、軍艦には取り付けやすく、かつ他国のものに比べて安価であった事で普及が早かったと言う事なのです。
 この技術を転用する事によって、戦艦『富士』にしても『三笠』にしても最大出力は18ノットと記録されているのですが、20ノット以上の能力を持つ様に成ったと言う事なのです。
 この事が艦隊決戦となった時大きな差になって来たと言うのです。

 つまり、日本艦隊とバルチック艦隊との艦隊としての能力差が『日本海海戦』で具体的な結果となって出て来たと言うのです。
 結果的にバルチック艦隊は戦艦8隻の内6隻を失い2隻降伏
                  装甲巡洋艦3隻の内2隻を失い1隻自沈
                  巡洋艦6隻の内1隻を失い1隻自沈3隻降伏
                  装甲海防艦3隻の内1隻を失い2隻降伏
                  駆逐艦9隻の内3隻を失い2隻自沈1隻降伏
  と言う結果を招き日本側の損失は水雷艇3隻と言う物であり、バルチック艦隊はほぼ消滅したと言える様なのです。
 因みにこの戦闘に於ける両軍の死者はロシア側4545人、日本側107人、ロシア艦隊指令長官『ロジェストベンスキー((1873~1906)』は負傷して日本海軍の捕虜として収容されたと言いますが、以下6106人のロシア兵が捕虜として収容されたと言うのです。


685 NHKドラマ『坂の上の雲』を見てⅠ

 東京の北区と豊島区の境の付近に『下瀬坂』と言う名前の付いた坂がある。
 ある意味では東京都の中で最も『日露戦争(1904~1905)』に由来する坂と言えるのかも知れない。
 人によってはその様な視点に立てば東京都港区にある『乃木坂』の方がその色彩は濃いのではないかとも言われそうなのであるが、私に言わせれば、それは『下瀬坂』なのである。

 成る程『乃木坂』の周辺には、戦前軍神とも言われた『乃木大将(乃木希典・1849~1912)』ゆかりの『乃木神社』もあるのである。
 そして、最近は地下鉄千代田線とは言え『乃木坂駅』と言うのもあるのです。
 其れを言われれば、『下瀬坂』は『日露戦争』で海軍によって使われた『下瀬火薬』に由来するとも言え、もっと正確に言えば海軍省の技師『下瀬雅充(1859~1911)』に由来する坂と言えるのです。

 知名度と言うか、『軍人の位で言えば・・・叶わない』とも言えそうなのですが、『乃木坂』の命名は『日露戦争』が終わり、『明治天皇(1852~1912)』が崩御された事を受けた『乃木大将』の『殉死』を悼んで大正元年(1912)に命名されたものであると言うのである。
 なんでも以前の江戸時代からの名前は『幽霊坂』と呼ばれていたらしいのである。

 『下瀬坂』の名前の由来となった『下瀬火薬』は、現在多く使われている『TNT火薬』とは違い石炭からも採取出来る『ピクリン酸』を原料とする物で、この火薬の爆発力の物凄さが『日本海海戦』に於いてロシア帝国の『バルチック艦隊』を破った原因の一つとされていると言う事なのである。
 つまり、この坂がある所にあった『海軍下瀬火薬製造所』で作られた火薬がロシア戦艦『アリヨール』等の艦橋を吹き飛ばし戦闘力を奪ってしまったのが大きな勝因とされる様なのである。

 突然話題を変えてしまうが一昨年の11月29日に始まったと言うNHKのテレビドラマ『坂の上の雲』が三年目を迎え、いよいよ最終章を迎えると言う。
 聞けば、この小説『坂の上の雲』のテレビドラマ化については、かねてから多くの会社からの映像化の申し込みがあったらしいが、作家『司馬遼太郎(1923~1996)』はこの小説をして、『戦争賛美と誤解される、作品のスケールを描ききれない』とテレビ各局に断り続けた作品であったと言う事である。

 確かにこの時代は現代とは大いに違う時代であったと言えそうなのである。
 その時代に棲んでいた訳ではないので、体感と言うものはないが、国が『欧米に追いつき追い越せ!』と一途に一方に向っている時代の話なのである。
 言わば『追い越される事』を非常に意識している現代とは違う時代の話とも言えるのである。
 その気は無くとも下手をすると『戦争好き』ともとられかねない危険性も高い時代であるとも言えるのである。
 つまり、結果的にその様に認定出来れば、発言者の意思等『如何でも良い』時代で、、後はその原因となった人の責任を追及することだけが面白さの対象となって来るのである。

 相手の真意を理解する事よりも、どの様にしたら相手を『苛められるか』に注意が向けられ、相手に直に手を下さなければ自分には責任がないともなって来る様なのです。
 その様になれば、作者の意図は殆ど無視されかねないとも言え、一人歩きする作品ともなり、結末は単なる『イエローページ』と位置づけられるとも言えそうなのです。

 そんな事もあり、彼の生前中はとうとうテレビドラマ化出来なかった作品の様なのであるが、『司馬遼太郎(本名・福田定一)』の死後、NHKは『その作者のニュアンスを正しく理解出来る見地に立つ』として夫人の『福田みどり(1929~)』の許諾を得て、2002年に製作チームを編成したと言う事なのです。

 それでも故人の『戦争賛美と取られかねない』と言う意思に配慮を重ねた為なのでしょうか、この制作には色々な紆余曲折があった様なのです。
 結果的に番組の放送時間を一回90分、放送回数も全13回、そして放送期間も三年にわたるものとして、視聴者の手応えを見ながらの制作であった様なのである。
 或いは、遺族に視聴者の反応を見ながらと言う配慮が前提にあったのかとも思います。

 その打開策の表れの一つが、切れ目切れ目にも行われるナレーションである様にも思われるのです。
 これは『司馬遼太郎』が同時期を取上げた作品の『明治と言う国家』『司馬遼太郎が考えた事』『殉死』等からの抜粋であったのかも知れません。

 日本と言う国は『太平洋戦争』の敗戦と言う戦争の経験からなのか、『戦争』を描くと言う事には、非常にデリケートになっている様に思うのです。
 よく言われる戦争に参加する兵士の雛形の様に国を思って国に尽くすと言う事には、言い知れぬ罪悪感を持っている国民の様にも思えるのです。
 特に戦後に生まれた私達『団魁の世代』と呼ばれる以前の世代の人達には、特にそうであったと言えるのではないかと思います。

 教条的にとは言え大前提として、『自由に生きる事が何よりも大切、国の意思に従う必要はない』と言う物があった様にも思えるのです。
 国民でありながら『一番の敵は、国の政府』と言う何か言い知れぬ前提が存在していた様ににも思うのです。
 国の方策に従う事を潔しとしなかった様にも思うのです。

 何しろ我々は戦争遂行の為に『産めよ増やせよ!』と言う掛け声の下に生まれて来た世代の様にも、思えるからなのかも知れません。
 本質的に自分達が『贅沢は敵だ!』との掛け声の元に犠牲を強いられた『一番の被害者であった』と思っている為なのか、『貴方達は厳しい状態下で生きる必要はない、もっと自由に思い通り生きるべき』だとされ、以前にあった申し合わせ等、とりあえず無条件で否定して始めるべきものとされていたと思うのです。
 でも、内心では常に『厳しく生きなければ・・』と言う思いも持っていたかと思います。
 其れ故『若い奴は軍隊にでも入って訓練される必要がある』等と言う言葉が消えないのであるとも思うのです。

 でも、正面きっては其れを認める事は出来ないそんな苦しさが自分達にはあるのです。
 同じ様な事は、現実に社会問題ともなって来ていると言えるのです。
 認めたくないが故に高齢者になっても『子どもに迷惑なぞかけたくない』ともなり、自分達の想いを要求する事等してはいけない事になり、『介護制度の充実』が叫ばれる様になっているのではないかとさえ思うのです。

 良く『因果応報』等と言う言葉もありますが、『親孝行』と言う事は、果たして『望んではいけない事』であったのでしょうか。
 私には、その様な対象者もいない故『悩む事』ではないのですけれど、私の様な人ばかりでは民族は消えて行ってしまう事になるのです。

 ともあれ、『司馬遼太郎』の小説『坂の上の雲』は、1968年(昭和43)から1972年(昭和47)にかけて、かって所属していた『産経新聞』に連載された作品で、その後単行本・文庫本等で知れ渡った『長編歴史小説』とも言うべきものなのです。
 彼は前身が新聞社の記者勤務であった為なのか、それとも昭和30年代と言う時代に作家に転身した為なのか作品の創作に当たってはどの出版に関しても非常な資料収集を行ない、時間をかける事を厭わなかった様なのです。

 一般に『小説』と言えば、単なる『無責任なフィクション』であって良いとも言え、仮定された設定で人気を集めれば『それで良いもの』の様にも思うのですが、この作品には其れだけでは飽き足らないものが滲み出ている様にも思うのです。
 つまり、単に読者の興味を引くだけの『イエロー・ブック』としてだけは済ませないと言う作者の誇りが、滲み出ている作品の様にも感じるのです。

 小説『坂の上の雲』に主役級として登場する『秋山好古(1859~1930)』『秋山真之(1868~1918)』『正岡子規(1867~1902)』は実在の人物ですし、物語上の姿も事実に沿って展開されているのです。

 聞けば作者『司馬遼太郎』も、1948年(昭和18)11月『学徒出陣』により在学していた『大阪外語学校』を仮卒業し満州にあった『戦車学校』に入校した人であったと言うのです。
 基本的に文学好きであった彼は、満州の『戦車学校』でも戦車の操作には弱く、成績も劣等生であったと言う事ですが、この事は結果的に彼を救った事になったと言うのです。

 つまり、成績優秀者はそれなりの配属が行われた様なのですが、彼は劣等者であったため配属も現地に残される結果になり、翌年彼は『本土決戦』と言う名目で日本に返される事になり、栃木県佐野市で陸軍少尉として22歳で終戦を迎える事になったと言うのです。
 彼の話ではその終戦の頃、同僚の若い将校が参謀に聞いた話が残っていると言うのです。

 『アメリカ軍が来たら、栃木から東京に移動して攻撃を行う』と言う作戦内容に『単にそれだけでは市民・兵士が混乱します、そういった場合如何すれば良いのでしょうか?』と聞いたそうなのです。
 その時の参謀は『ひき殺してゆく』と応えたと記憶していると言うのです。

 この話の真偽には後日談もあり、行き違いもあった様なのですが、ともかく、この話を聞いた時、彼は『何故、こんな馬鹿な戦争をする国に生まれたのだろう?何時から日本人はこんなに馬鹿になったのだろう?』と思うと同時に『昔の日本人は、もっとましだったに違いない』と思ったと言う事なのです。

 どうやら、この気持ちが彼が復員後、出版会に身を置く動機ともなった様なのですが、彼が作家として転身てからは、この時の感情を常に意識していた様なのです。
 つまり、彼は作家として『22歳の自分への手紙を書き送る様にして小説を書いた』と言う事なのです。

 単なる余談となってしまうかも知れませんが、『司馬遼太郎』の思いは彼一人の思いではなかったと言えそうなのです。
 色々な記述を見て見ますと、日露戦争時までの日本の兵隊に多く接して来た中国の人達は皆、『日本の兵隊は日露戦争以後大きく変わって来た』と言うそうなのです。
 そして、『何で、日本兵はあんなに横暴になってしまったのだ!』と言うそうなのです。

 つまり、『日露戦争(1904~1905))』までの日本兵は中国国内で、現地の人々に暴行を振るったり、食料調達を強行したりする事はなく、その為現地人の反発も非常に少なかったと伝えられるのです。
 食料が必要な場合には、必ず代価を支払っていたと言うのです。
 昨年の『坂の上の雲』には日本人が現地の人から反発を飼っているシーンもありましたが、あの様子はむしろ昭和に入ってからの事で、番組の制作者達は『反戦』の意向を語りかけたかったのかも知れません。

 この『軍律』の良さが国際的にも評価され、日本軍の脅威とされたのが、日露戦争のプロローグともされる『義和団の乱(北清事変・1900~1901)』における日本軍であったと言える様なのです。
 この『義和団の乱』と言うのは『日清戦争(1894~1895)』以後の清国に於いて、中国国内から起きて来た『義和団』を称する人達の排外運動を目的とした秘密結社の武装運動でもあったのです。
 言わば、中国国民の『攘夷運動』とも言うべきものであったのです。

 結果的に清朝末期の権力者である『西太后(1835~1908)』が権威回復を狙って、欧米各国に『宣戦布告』した為、国家間戦争となってしまい『北清事変』と呼ばれる様になり『清国』の滅亡を早めただけとも言えるのですが、この戦争で最も名を上げたのが『日本軍』であった様なのです。

 私達の世代の人達は、その様な名前よりもその中心とも位置付けられる『北京籠城戦』がアメリカのフォーク・グループ『ブラザーズ・フォア』の歌った主題歌『55DAYS AT PEKINNG(北京の55日)』で知られる戦争なのです。
 映画は同名のアメリカ映画『北京の55日』で知られますから知る人も多いと思います。

 この『北京の55日』と言う映画は、アメリカ映画ですので当然の事ながらアメリカがかなりデフォルメされてもいる様なのですが、其れはともあれ、北京の外国人居留地に押し寄せた『義和団』凡そ20万に対してアメリカ海兵隊の『ルイス少佐(チャールトン・ヘストン)』に指揮される外国人が僅か500名の戦力によって55日間の籠城戦を戦ったとされる映画でもあったのです。

 実際にこの『北京の55日』と言うのは、具体的には『紫禁城』の東南地区にあった公使館地区に外国人925名と中国人クリスチャン凡そ3000名が追い込まれた事件であったのです。
 その時これを守る兵力は護衛兵と義勇兵を合わせても481名しかいなかったと伝えられるのです。
 この時『義和団』から要求されたのは『24時間以内に国外退去』と言う事で、これは冷静に見ても『不可能な事』で止む無く籠城戦を決意するに至ったとされているのです。

 元を正せばこの『義和団の乱』と言うのは、中国の華北地方・満州地方を中心に起きた争乱で、中国の国内問題が中心の争乱であったとも言える様なのですが、その原因辿る様に考えれば、其れは諸外国の侵略にあると言う様な問題になって行った様なのです。
 言い換えれば、排外の為に北京周辺に終結した『義和団』凡そ20万人に『清国』の『西太后』が乗ったもので、各国北京駐在公使の要請を受けて軍事介入したロシア帝国・イギリス・フランス・ドイツ帝国・イタリア王国・オーストリア、ハンガリー帝国・アメリカ合衆国そして大日本帝国の八カ国連合軍約71,920人の争いとなったものであったと言えそうなのです。

 つまり、その様なものですから、中国と列強の対立と言っても中国側に統一したものは少なく、戦いの装備と言っても多くの義和団兵は外国の軍隊を想定していませんから『蛮刀』を持つ程度で銃を持つ人も少なかったと言う事です。
 結果的に膨大な損害を出して行ってしまったのです。

 記録によりますと この戦いに日本はロシア軍と殆ど同規模の8000人を派遣して、『義和団』の鎮圧に当たったと言うのですが、八カ国列強の中で最も新参であった為最も多い犠牲を払う事になったと言われているのです。
 しかし、評価を高めたのが『新参』とも言える『アメリカ』であり『日本』であった様なのです。
 当時の記録によれば、この北京の攻防戦の連合国側の全体の死者は757名、負傷者は2654名とされている様なのですが、日本は最も『義和団』の正面に配属された為、死者349名負傷者933名とされているのです。

 『義和団の乱』と言うのは、言うなれば中国の人達にとって、新たな賠償責任も課せられる事となり『徒労に終わった戦い』と見る向きも少なくない様なのですが、一方では『清朝』の滅亡を早めた事件とも位置づけられると言うことなのです。
 又、中国の実状を知る外交官の中には『私が中国人であったなら、私も義和団になっただろう』と言う人達も多くいたと伝えられ、それは北京籠城を余儀なくされた人達からも起きて来たと言うのです。

 ともあれ、この『義和団の乱』は列強の間にも大きな変遷をも示した様なのです。
 日本軍のある将校は『列国中もっとも強気は米国の兵なり、米兵の強さは蛮勇的な強さにあらずして、良くその義務を守ると言う一点に於いて強し。まさに文明国の兵と言うべし』と賞賛していると言うのである。

 この戦乱に於いて、日本軍や日本人が示した姿勢は、この米兵に劣らず優れたものであったと伝えられ、イギリスのロンドンタイムスの社説は『籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ』と書いているそうなのです。
 つまり、その姿を見て日本兵が野蛮な国の兵隊である観念を捨てたと言う人も多かったと言う事なのです。

 更に余談を言えば、この『義和団の乱』は『紫禁城』の開城で終わりを告げたと言われている様なのですが、『義和団』と単身交渉し『紫禁城』を無血開城させた人物も日本人で『川島浪速(かわしまなにわ・1866~1949)』と言う人物であったという事なのです。

 『川島浪速』と言われても、現在は歴史から隠されている人物とも言え、正直の所良く判らない人が多いと思いますが、後年、太平洋戦争の折『男装の麗人』とも呼ばれ、日本軍の美人スパイとして名高い人であったのですが、最終的には中国人の『国民党』によって戦後銃殺刑に処せられた『川島芳子(1907~1948)』の養父ともされた人なのです。

 彼は信州松本藩士の子として生まれたと言われますが、古くからアジアの情勢に危惧を持ち、その影響もあって中国に関心を持ち、成人した後は中国に関する仕事に着きたいと思っていた人であったと言います。
 その為中国語を学び、その学校を中退して大陸に渡り、放浪の旅をした人と伝えられているのです。
 放浪の旅で彼が得た事はアジア人の連携が何よりも必要になって来ると言う事で,それが出来なければ日本の安全も危うくなると言う観念であった様で、その事が彼のその後の人生に大きな影響を与えたと言われます。

 その様な時に『日清戦争』が起きたので、彼は陸軍通訳間として従軍し、中国から台湾に転戦したと言うのです。
 陸軍としては民間人ながら彼の能力に期待するものがあったのかも知れません。
 人材に飢えを感じていた軍部のひたむきさを思うのです。

 本当の意味で中国人と言う独特の心理を理解出来た人ではなかったかと思います。
 『義和団の乱』が起きた際も、彼は北京にいて『紫禁城』に乱入して略奪行為の中にいた義和団兵士の中に単身乗り込み、結果的に『紫禁城』を無血開城に導いた様なのです。

 果たして、彼が如何なる方法でこの事を成し遂げたかは、不明であるそうなのですが、この事によって『紫禁城』の被害は留められた様なのです。
 『紫禁城』の宝物と言えば、日本の『正倉院』の宝物以上の物と言えるものなのかも知れません。
 一時は略奪した宝物で市場も開かれていたと言いますから、大きな事であったと言えそうなのです。

 何れにせよ、この『義和団の乱』で『紫禁城』が完全に崩壊してしまえば、多くの宝物は行方知れずになり、本当に灰燼に帰する事になったのです。
 その意味で言えば『川島浪速』は『清国』を、と言うよりは『中国の文化』を救った人であったのかも知れません。

 ともあれ、この様な事が後の『清朝』に評価されたのかも知れません。
 『義和団の乱』以後、彼は『清朝の皇族』と親交を深め1911年に起こった『辛亥革命』によって『清朝』が滅亡すると、『愛新覚羅善耆(アイシンカクラゼンキ・1866~1922)』を北京から脱出させ、翌年『満蒙独立運動』を計画して実行するに至ったと言うのです。

 この様な事が動機となったのやも知れません。
 『川島』と『愛新覚羅』は義兄弟の契を結び、1942年には『愛清覚羅』の第14王女を貰い受け『川島芳子』と名付けたと言うのです。
 『川島芳子』は日本に引き取られ、殆どは日本人として、人生を送る事に成るのです。
 

683 『日本美女列伝』30 平家物語を彩る美女⑩外伝?6

 聞くところによれば、現在の埼玉川口市前川と言う所にも『平家落人伝説』は残されていると言うのです。
 なんでもこの地に残る伝説は、『平高清(六代・1173~1199)』と言う『平重盛(1138~1179)』の長男『平維盛(1158~1184)』の六男に当たる人の伝説でもあると言うのです。

 この人は、単に『六代』とか『六代御前』とも称される為に一般には馴染みの薄い人なのでもありますが、平家一門の隆盛の下を築いたと言われる『平清盛(1118~1181)』の曽祖父『平正盛(?~1121)』から数えて、六代目にあたる事から『六代』とも呼ばれた人で『平家物語』ではその名前で登場する人でもある様なのです。

 血筋と言う点に主眼をおきますと、本来なら本流に当たる人と言えるのです。
 具体的に言えば、父の『平維盛』は『平家一門』の貴公子とも言えた人で際立った美男子として評判も高く、天皇の中宮となった叔母『建礼門院徳子(1155~1214)』との関係も良かった事から宮中の評判も良かった人と伝えられている人です。
 その事もあって『維盛』の六男として生れた彼も、『六代御前』と呼ばれる様になったと言いますから、その優秀さは各方面からの期待度を、非常に集めていたのかも知れません。

 しかし、物心付いてからの彼の人生は決して恵まれたものではなかった様なのです。
 その元々の原因は、父の『平維盛』が『源頼朝(1147~1199)』と『富士川の戦い(1180)』と『木曽義仲(1154~1184)』との『倶利伽羅峠の戦い(1183)』に敗れたこともあり、その為『平清盛』の怒りをかって平家の総大将の地位を『平知盛(1152~1185)』に譲る事になった事にある様なのです。

 この結果『平維盛』は実質的には戦線を離脱し、独自の道を歩く事になりやがて1184年に熊野の沖で入水自殺したと伝えられるのです。

 この為六男『平高清』は『平家の都落ち(1183)] に際し、一門とは母と共に別行動をとることになり、『壇の浦合戦(1185)』で平家が滅亡した以後も、京都に潜伏していて『北条時政』に捕らえられたと言うのです。
 しかし、余りにも頭脳明晰であった為なのか『頼朝』の親友『文覚上人(1139~1203)』の熱心なな喉助命嘆願によって助けられ、以後は『源頼朝』にも気に入られ彼の庇護の下に『出家』して暮らしていたと言うのです。

 この伏線として言わているのは、『平清盛』の父『平頼盛(1133~1186)』の妻であった『池禅尼(宗子・1104~1164)』の存在であったのかも知れません。
 つまり、遠因としてあったのは『源頼朝』が『平治の乱(1159)』を生き延びた原因が『池禅尼』の助命嘆願にあり、本来は討たれる身を助けられたと言う事なのです。
 彼女からすれば、捕らえられて来た『頼朝』を見て、彼が早死した子供の『家盛』に余りにも似ていたからだと言う事によるものだと言われていますが、『頼朝』はその時の恩を一生忘れなかった人であったと言われています。
 『頼朝』は平家一門と言えど『池禅尼』に因む人達を助け続けて行ったと言うのです。

 ただ、その後の記録では、1199年に『源頼朝』が死に翌月『文覚』が『三左衛門事件(1199)』に連座して隠岐に配流の身になると、全然違った物になって行き、庇護者を失った彼も捕らえられ1199年に逗子の海岸で処刑されてしまった事になっているのです。
 それにしても、『六代御前』と言う人は12歳で囚われの身となり、27歳で亡くなるまで余りにも世情に流されすぎたと言える様なのです。
 そして、その最後が悲劇的で哀れなものであったが故に、各地に残る『六代御前』に因む『平家落人伝説』も鎮魂の意味もあり多いと言える様なのです。

 この『六代御前』に因む『平家落人伝説』が現実に埼玉県川口市にも残っていると言うのです。
 この古文書の言い伝えがいつの頃書かれたものかは詳しくは解らないのですが、歴史的に観ても彼は鎌倉幕府によって二度・三度捕縛されていると言う事なのです。
 身は『頼朝』の庇護の下にあり、『出家』はしていても行脚の旅は容易な事でなかったのかも知れないのです。
 古文書のきっ術は、この地にあった時、捕縛された時のものとも考えられますが、処刑されずに逃れ住んだ地としての想いが含まれていた様にも思われるのです。

 現在の川口市前川と言う所は、入間川こそ流れているものの関東平野の真っ只中と言えます。
 従来の『平家落人部落』のあるところでは無いと言えますが、何しろ別の古文書によればこの地には、後日『関が原の戦い(1600)』に敗れた『石田三成(1560~1600)』の孫が隠れ住んだ土地との記録も残っていると言う事なのです。
 私達から見れば、如何しても『落ち武者』と結び付くとは考えられない所ではありますが、『落ち武者』にしか分からない格好の場所であったとも考えられる所であったのかも知れません。

 ともあれ、関東周辺の『平家落人伝説』と言えば、現在では栃木県栗山村に残る『平藤房』や『平忠実』の伝説や新潟県秋山郷に残る『平勝秀』の伝説が有名な物とされている様なのです。
 現在では、インターネットの様な物が出来た為か,『平家の一族にその様な武将が存在したであろうか?』を調べ、それでもってその地に残る『平家落人伝説』が正しいか否かを論じる人も出て来ている様なのです。

 確かに、その様な主張も大切な事なのかも知れません。
 でも、私の目はその様な事よりもむしろその様な事が何時の頃から起きて来たものかに関心が向いてしまうのです。
 その様な話の性質を考えると関東周辺に残る『平家落人伝説』は、関西や四国・九州に残る『平家落人伝説』よりも、もっと早い時期に始まったのではないかと思うのです。

 『平家落人伝説』をその様に見て行くことが許されるものならば、関東以北に多い『平家の落人伝説』は、従来言われている『壇の浦の戦い(1185)』の『平家の落ち武者』による物ではなく、それ以前の『倶利伽羅峠の戦い(1183)』等で発生した『平家の落ち武者』によるものと言える様なのです。
 そして、『平家落人伝説』の成立時期と合わせて考えれば、その時節的な潜伏期間が長かったとも想われる為なのか、むしろその『落ち武者』達本人よりも、その子供・孫達に始まっていると言った方が良いのではないかと思うのです。

 現代の関東で『平家落人伝説』で有名な所はマスコミ等の流布もあり、『栃木県』『群馬県』『新潟県』と言えるのではないかと思いますが、本当は関東のあちらこちらの平地にもあったのではないかと思うのです。

 その様に見て行くと、栃木県等の東日本の『平家落人伝説』の流には、二つの物がある様に思うのです。
 関東と言う土地は『源氏』の本拠地と言う言い方をする人もいる様なのですが、其れは『前九年の役(1051~1062)』『後三年の役(1083~1087)』に登場した『源義家(1039~1106)』の影響による物と言え、実質的には同時に『坂東八平氏』と言う呼称も存在する様に、多くの『桓武平氏』に源を発すると言う『平氏』の多い所でもあった様なのです。

 その為、『源頼朝』と争った『大庭景親(?~1180)』一族を始めとする『坂東八平氏』に由来を辿れる人達と、『倶利伽羅峠の戦い』以後に『平家』の戦線を離れ降伏者として関東に来る事になった人達の二つに分けられる様なのです。
 後者には先に書いた『平高清(六代御前)』や『妙雲禅尼(?~1194)』『平貞能(生没年不詳)』が上げられる事になるのです。

 『妙雲禅尼』は『平清盛』の長男『平重盛』の妹とも、子の『平維盛』の乳母とも伝えられる定かさの少ない人ですが、『平貞能(たいらさだよし)』にとっては主筋の人であったと言える様なのです。
 その『平貞能』と言う人は、『平清盛』『平重盛』の二人に仕えた平氏譜代の重臣とも言え、勇猛で知られた武辺の人であったといわれます。

 しかし、『平重盛』が病没してからは、その長男の『平維盛』と共に各地に転戦する事が多く、『倶利伽羅峠の敗戦』を受けて『平家』が京都放棄する事をを決めた際にも、軍議には列席しておらず、彼一人が悔しがり手勢を率いて京に留まり『徹底抗戦』を叫んだと伝えられるのです。
 しかし、実際には彼と共に留まり戦おうとする兵は集まらず、止む無く旧主君の『重盛』の墓所を源氏に暴かれてはと『重盛』の墓を掘り起こし、僧となって遺骨を抱いて『平家』のもとを去ったと言う人なのです。

 同時にその主筋に対する『縁』と言うこともあったのか、主筋の『妙雲禅尼』を伴い、旧知の『頼朝』の寵臣『宇都宮朝綱(1122~1204)』を頼ったと言うのです。
 この『宇都宮朝綱』と言う人は、坂東の豪族桓武平氏の『八田氏』に生れ『八田三郎』と呼ばれていた人でもあったと言いますが、なんでも武勇で定評のある人であったらしく、後に『源頼朝』によって『坂東一の弓取り』と賞賛された程の人でもあったと言うのです。

 なんでもその噂は相当のものであったらしく、平家専横の時代であっても朝廷からの要請で上洛し、当初は『大番役』であったと言うのですが、やがて鳥羽院の『武者所』を勤め、白河院になってからは『北面の武士』をも歴任したと言うのです。
 この様に、当初はむしろ平家方の武将として知られた人の様でしたが、何時の頃からか其れを潔しとしなくなり、1180年の『源頼朝』の挙兵に際してはその貴下に入る気配も見せ、一時は『平清盛』の拘束を受けた人であったと言われます。

 しかし、この時は『平重盛』の重臣であった『平貞能』のとりなしもあって許されて、故郷に戻れたと言う事なのです。
 その後、彼は『畠山重忠(1164~1206)』『梶原景時(1140~1200)』等の坂東平氏と共に『源頼朝』に従い、重要な働きを示しその信任もかなりの物であったと言う事なのです。

 その様な時に先述した『妙雲禅尼』と『平貞能』が当時の『平家』から離れ、僧となって保護を求めて来たと言うのです。
 とは言っても、流石に本来の『妙雲禅尼』と『平貞能』の身分からすれば、『頼朝』に取り成す事は非常に難しい事でもあったと思われます。

 ともあれ、彼の必死の嘆願により『頼朝』は、『後日、もし貞能が反逆を企てる事あらば、永く朝綱が子孫を断たしめ給べし』と言って許したと言うのです。
 ですから、世に言われる『落人』とは些か雰囲気が違う人達なのです。
 この結果、1183年に『妙雲禅尼』と『平貞能』は『宇都宮朝綱』の領地である現在の『塩原温泉』の地に預りの身となり、草庵を結んだと言う事なのです。

 現在の『塩原温泉』は『田山花袋(1870~1930)』が紹介した『塩原十一湯』等で全国的な温泉地となり『開湯は平安時代初期に遡り、1200年の歴史がある温泉地』となるのです、当時はひなびた温泉が涌く土地と言う事だけであったらしいのです。

 この『塩原温泉』が本格的に知られる様になったのは、つい最近の大正時代に入ってからであると言われているのです。
 つまり、時期的には明治になって『尾崎紅葉(1868~1900)』が訪れて『金色夜叉(1902)』の舞台として取上げてからであり、注目を浴びたのは『夏目漱石(1867~1916)』が1912年(大正1)『妙雲禅尼』ゆかりの寺として1312年に造られた『妙雲寺』を訪れ、庭にある常楽滝を見て『妙雲寺に漠を見る』と言う漢詩を詠んで以降の事なのであると言うのです。

 余談となってしまいますが『夏目漱石』が1903年(明治36)第一高等学校と東京帝国大学の講師となっていますが、その時の教え子があの『岩頭の感』で知られる『藤村操(1886~1903)』なのです。
 『漱石』は新任であったこともあり、意欲に燃えていたらしく『藤村操』のやる気のなさを叱咤したと言うのです。
 その数日後、『藤村操』は日光市の『華厳の滝』に飛び込んだと伝えられでいるのです。この事件は『夏目漱石』を大変苦しめたと伝えられているのです。

 私も今まで『塩原温泉』には幾度か訪れた事はあるのですが、この近辺に存在する栗山村や日光市湯西川の様に『平家の落人伝説』が残る土地とは、あまり言う人は居なかった様に思います。

 でも冷静に見れば、この地域の中で最も『平家落人伝説』が残されている所とも言える様なのです。
 そして、この地の『平家伝説』の中心となっているのが、現在『妙雲禅尼』が草庵を結んだという跡地に立つ『妙雲寺』であると言えそうなのです。

 ただ、この『塩原』と言う土地には、殆ど同時期の旧跡として『源三窟(げんさんくつ)』と呼ばれる40m位の小さな鍾乳洞があります。
 この『源三窟』は、『妙雲禅尼』と『平貞能』が訪れた直後の1187年に、『源義経(1159~1189)』と共に『源頼朝』に背いたとされる『源有綱(?~1186)』が訪れた『伝説』に因む小さな『鍾乳洞』なのです。
 ですから、この『源三窟』と言う所は『平家落人伝説』に因む所と言うよりは、同じ源氏の『落人伝説』の所と言った方が正しいのかも知れません。

 歴史書等を見ると『源有綱』と言う人は、『源義経』等と共に戦い関西の地で亡くなっている人でもあるのですが、『義経』とも非常に親しかった事から『頼朝」に追われる身となってしまったと言うのです。
 『伝説』によればこの地に逃れ来て隠れ住んでいた所発見されて討たれてしまったとされているのです。
 そして、その発見された理由と言うのが『米の研ぎ汁』と伝えられているのです。

 おそらくは、その伝えられる最後が河内源氏の『義経』以上に余りにも悲劇的であった為か、余り紹介される機会はないのですが、家系で言えば摂津源氏の『源頼政(1104~1180)』の孫に当たる人なのです。
 ある見方からすれば、『源三位』とも呼ばれた祖父の悲劇を写して『源三窟』と呼ばれ始めたのであるとも言われている様なのです。
 
 『源頼政』と言う人は、『平清盛』の信任を非常に受けていた事から、当時の武士としては破格の『従三位』と言う位に上り詰めた人なのですが,最終的には平氏の専横に不満を持つ『後白河法皇(1127~1192)』の第三皇子『以仁王(1151~1180)』等と結び『平氏打倒』の令旨を全国に伝えた人として知られるのです。

 ただ、この計画は早めに露見して、『頼政』は準備不足のまま挙兵する事ともなり『宇治平等院の戦い(1180)』で敗れ、『有綱』の父で嫡男の『源仲綱(1126~1180)』と共に自害して果てた人でもあるのです。
 しかし、この『宇治平等院の戦い』は、結果的に『以仁王の令旨』を各地に広める事となり、各地に『源氏』の蜂起を見た事から、『壇の浦合戦』の序曲と言える物であったかもしれないのです。

 実際の『源有綱』は父の知行国・伊豆で育った為、この『宇治平等院の戦い』には参加しなかった為生き延びたと言えそうですが、その後の『源頼朝』の挙兵に参加、して、以後『壇の浦合戦』までは『義経』の腹心の部下として戦っていた様なのです。
 しかし、『義経』が『頼朝』に疎まれ、追われる身になると彼も共に九州に逃れようとした物の暴風雨により失敗、『義経』等と共に吉野に逃れたと伝えられているのです。

 その後、記録では大和に逃れた物の、義経の残党狩りをしていた北条勢と戦い深山に入り自害したと伝えられる人なのでもありますが、『伝説』では吉野からこの『塩原』に逃れ来て、領主であった『塩原八郎家忠(生没年不詳)』を頼ったと言う事なのです。

 この『塩原家』と言うのは、元を辿れば、『源義家』に同行して『蝦夷征伐』に来た塩屋氏が先祖であった事で、その縁を頼ったと思われるのですが、当時は源氏とは言え『源頼朝』を主君とする『宇都宮朝綱』が領主の時代となっていたのです。
 止む無く、現在の『源三窟』と言う所に隠れ住んだと言える様なのです。

 言い伝えでは『源有綱』は地元民とは仲良く生活し、地元民は『なけなしの米』等を献上して敬意を払っていたと言う事なのですが、この『米』が彼の命を『縮めたのではないか』と伝えられるのです。
 この鍾乳洞には『米洗いの滝』と名付けられた場所があるのですが、ここから流れた『米の研ぎ汁』がこの洞窟の中に高貴な生れの人がいるのではないかとの憶測を呼び源氏の追っ手を招く事になったと言うのです。

 この地方の湯西川等の『平家落人の里』には『米の研ぎ汁を川に流すな!』と言う戒めがあると言う事を聞いた事がありますが,其れはこの様な故事からきている物と思うのです。

 ともあれ、この洞窟が紹介され始めたのは『塩原温泉』が有名になった明治43年の頃であった様で、その頃は『有綱』より知名度の高い祖父である『頼政』ゆかりの『源三位』の名前を取り『源三位穴』と言う名前であったと言われますが、何時の頃からか『源三窟』と呼ばれる様になって来たと言われるのです。
 
 その様な事を想うと源氏の『源有綱』よりも平氏の『妙雲禅尼』と『平貞能』の方がいく媒幸せであったかも思うのです。
 話を『妙雲禅尼』に戻しますと、『妙雲禅尼』はこの地の豪族『塩原八郎家忠』の好意もあって約十年間一族の菩提を弔いながらの生活を送ったと言われ1194年に他界したと言うのです。
 塩原には『ホトケザワ』とか『ツキヨガワ』『ギョウブチ』と言う地名があると言うのですが、これらは彼女が京都を偲んで詠んだ名前に由来する物であると言うのです。

 『平貞能』はその様な彼女の死後、彼女の菩提を弔うと共に、『重盛』の遺骨を捧持して、僧としての修行を目的として塩原を旅立ったと言うのです。
 結果的に『平貞能』の墓所としては、茨城県東茨城郡の『小松寺』、栃木県芳賀郡益子町の『安善寺』、宮城県仙台市の『西方寺』が知られますが、何処の近くで又、幾才で亡くなったものやら定かではないと言われます。

 ただ、其れまで彼と共に付き従っていた人達は、其々に各地へ散って行った様なのです。
 その人達の中から、後の『平家落人部落』の構成員が出て来たとしても其れはむしろ自然な事であったとも言えると思うのです。

 ところで、『塩原温泉』の話にしましたから、もう一つ『美女(?)』の話を付け加える事とします。
 其れは、江戸時代の遊郭『吉原』で名が知られることとなった『三浦屋』の『花魁・高尾太夫(1641~1659)』の出身地であると伝えられる事なのです。

 そもそも『花魁』と言うのは『吉原』の『太夫』の中でも最も格式の高い遊女であったと言うのです。
 そして、『吉原遊女三千人』と言われた中でも、最も有名な花魁でその名を襲名する為には、それなりの学識と容貌が必要とされたと言うのです。

 なんでも、遊女と言っても相手をする人は様々あり、大名や富豪と言われた人達ともなると遊女もそれなりの知識と教養も必要とされていたようなのです。
 そんな訳で遊女と言っても高名となると、生半可な物では名前が維持出来ないと言われ、世に『寛永三名妓』と言われる京都の『吉野太夫(1606~1643)』大阪の『夕霧太夫(?~1678)』と吉原の『高尾太夫』はその筆頭であり、普通の人では会う事さえ難しかったと言うのです。

 記録によれば、この『高尾太夫』と言う名前は、江戸時代を通せば11代に及び、その中でも最も知られ有名な者となったのがこの『塩原温泉』の元湯の出身で幼名『あき』と言う女性であったと言うのです。
 この『あき』は寛永18年(1641)この地で生まれ、その後紹介する人がおり、遊郭三浦屋の養女になったと言う事なのです。
 普通ならそのまま幸せな人生も望めた様なのですが、その直後に起きた『明暦の大火』によって三浦屋が焼失した為に、自ら『三浦屋』再興の為に16歳で遊女となって2代目『高尾太夫』を名乗る事となったと言うのです。

 通称『万治高尾』とも呼ばれて人気も高かった様なのですが、そんな時出合った相手が『仙台藩』のお殿様の『伊達綱宗(1640~1711)』なのです。
 このお殿様は、放蕩三昧のお殿様であったと言われ、この人の存在が後に起こる寛文年間(1666頃)の『伊達騒動』の原因となって行くのですが、其れはさて置き、この殿様との出会いが彼女の人生を狂わせることとなり、19歳で若い命を散らす事となるのです。
 つまり、仙台藩の代三代藩主『伊達綱宗』の放蕩三昧の犠牲になった遊女としても知られる『美人』と言えるのです。

 事の真偽はさて置いて、この様な事が幕府に知れ,結果的に仙台藩の三代目は藩主として不適格とみなされて、幕府の支持で21才の若さで隠居させられる事になり、僅か2歳の長男『伊達綱村(1659~1719)』に代を譲る事になって仙台藩改易の危機を迎える事になって行くのです。

 

679 『日本美女列伝』29 平家物語を彩る美女⑨ 外伝?5

 ところで『平家の落人伝説』と言うのは、『壇の浦合戦(1185)』以後の話であると言う事から、合戦の行われた瀬戸内海を中心としてあると言えます。
 その最大の特徴と言う物は、事実の裏付けはないもののいずれも平家の著名人とされる人達を中心として展開している所にあると言えそうです。
 つまり『壇の浦の戦い』で討ち死にしたと伝えられるが、『実は生き延びて・・・』と言うパターンが多いのです。

 実際に『落人』と言う物は、当時の様な戦いになれば自然的に発生する物ですし、それが著名な人物ともなれば、『落人』になる事すら許されない物であったと思うのです。
 実際は余り高名でない人達を中心に『落人』は多かったのじゃないかと思うのですが、それでは『伝説にならない』と言う事なのでしょうか、かって主筋であった著名人を持って『平家の落人伝説』の主人公に強引にしている様にも思うのです。

 『平家の落人伝説』と言う物は、確かに『壇の浦』から遠く離れた『みちのく』や『奄美群島』にも残る『伝説』でもある様なのです。
 その様な『伝説』を集めてみれば、『平家の隆盛』の象徴的な存在とも言える第81代『安徳天皇(1178~1185)』の墓も寿命も、幾つも存在する事になる様なのです。
 つまり『安徳天皇の墓』と言う物は、全国に30箇所以上もあると言う様ですし、『安徳天皇』は『壇の浦』では僅か7歳で死んだ事になるのですが、彼は兵庫県姫路に逃れて10歳、鹿児島県牛根で13歳、四国の徳島県祖谷に逃れて16歳、高知県横倉山に逃れて23歳、佐賀県山田郷で43歳、鹿児島県硫黄島で64歳まで生きていた事になるのです。

 しかし、現代が最早『伝説』よりも『村おこし』『町おこし』の時代となっていると言う事なのでしょうか、その様な『伝説』が実在したとしてもその次には直ぐ『秘境の地』と言うセールスポイントと言うものが来る様なのです。
 『落人伝説』などと言うものは本当に影が薄くなりがちであると思えて仕方がない言う事にもなるのです。

 でも、現実に『伝説』が残されていると言う事は、それだけでも当時の人達が後の世に伝えたい事があったと言う事ではないかと思うのです。
 元々『伝説』と言う物は、『伝説』となってしまった由縁がある物なのです。
 何よりも、『自分達の思いを後世に伝えたい』と言う事があったからだと思うのです。
 つまり『史実』として残れなかったところに『伝説』の価値があるのだと思うのです。
 それが、『その土地の人達のロマン』である様にも思うのです。

 しかし、『伝説』となってしまった場合、多くは『口伝』似て伝えられ時が経つと共に変化して行く物ではないかと思うのです。
 『伝説』自体が怪しく変化して行ってしまうと言えます。
 そこに『伝説の難しさ』がありますが、忘れたくない事であったから『伝説』として残ったものにも拘らず、勝手に変化している事を忘れてはいけないと思うのです。

 『平家落人伝説』と言う物を見て来ますと、きっとその様な『ロマンの下』に作られた話ではなかったのであろうかと思うのです。
 ただ、伝い手がそれに気づかなかったと言えるのです。
 きっと『筋妻が会わなくなって』消えて言った話も多いのではないかと思うのです。
 現在では、実しやかな物として『五月にこいのぼりを上げない』とか、音を出してはいけ無いと言う事で『鶏や犬を飼ってはいけない』とか、人が住んでいる事を覚られてはいけないと言う事で『米の研ぎ汁を川に流してはいけない』等と言う話が残っているとも聞きます。
 しかし、これらは本当に『平家の落人』が言い始めた事なのでしょうか。

 物事を『史実』としてみる事は大変大事な事でもあるのですけれど、『伝説』だからと言ってもっともらしくが良いとはならないと思うのです。
 『伝説』として、真面目に意識的に捕らえることも大事な事だと思うのです。
 『平家の落人伝説』として真面目に意識的に捉えられなくなった時、『伝説』は消えて行く事になるのではないかと思うのです。

 そして次に思う事は、この様に『平家落人伝説』と言う物を見て来ると、何故か『平重盛(1138~1179)』の一族(子孫)とされる人達に、その伝説の多い事にそれを感じるとも言えるのです。
 つまり、その人達の『生存伝説』ともなって来ているのです。
 『壇の浦』で、死んだ筈なのに・・・・となって来るのです。

 『平重盛』と言う人は『平清盛(1118~1181)』の嫡男として生まれ、『平氏にあらずんば、人にあらず!』と言われた時代、『清盛』の後継者として期待された人でもあったと伝えられているのです。
 ただ、母が有力な外戚を持つ人でなかった為、当時の平氏一門の中でも孤立的な存在であったと言われます。

 その為もあって、個人として学問武芸に一層励んだ人と伝えられ、『保元の乱(1156)』では父『清盛』の制止を振り切って『源氏』の伝説の英雄『源為朝(1139~1170)』に戦いを挑んだともされ、又、『平治の乱(1159)』でも『源氏』の『悪源太』の別称で呼ばれた『源義平(1141~1160)』との死闘は御所の『右近の橘・左近の桜』の故事の激戦として長く後世に伝えられた物でした。

 その様な激しさを持った人であったのですが、『勤皇』の気持ちも一入(ひとしお)の人で、父『清盛』と『後白河院(後白河天皇・1127~1192)』の対立の中で苦悶した人であったと言われ、彼が呟いたと言う『忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず』と言う言葉は、『忠義』と『親孝行』の難しさとして長く後世に伝えられた物なのです。

 この為、彼が存命の時は『後白河院』の期待も高く、もし、彼が健康で長生きしておれば、『平氏』の命運もこれ程早く衰えなかったのではないかと言う人もいるそうなのです。
 因みに『平重盛』は江戸時代後期、『勤皇の志高き人物』として高く評価され、『楠正成(1294~1336)』『万里小路藤房(1296~1380)』と並び『日本の三忠臣』と言われたと言うのです。
 
 この様に伝えられますので、『重盛』は『平家物語』に於いても『驕る平氏一門』の中にあっても『数少ない良識派』として描かれているのですが、『鹿ケ谷の変(1177)』以後、様々な心労から病を得て、父『清盛』に先立って病没してしまい、『平氏』は『平時子(1126~1185))』と『清盛』の三男『平宗盛(1145~1185)』に引き継がれる事になって行った様なのです。
 これによって、『平重盛』の一族は平氏の本流から外れて行ったとされるのです。

 つまり、この為とも思える様に『平家の落人伝説』には『重盛』の子息達が続々と登場する様な思いに捕らわれてならないのです。
 『平重盛』の子供と言うのは『平維盛(1158~1184)』『平資盛(1158~1185)』『平清経(1163~1183)』『平有盛(1164~1185)』『平師盛(1171~1184)』『平忠房(?~1186)』が知られます。
 『壇の浦の戦い(1185)』を思えば実際に皆『落人』となった保証は無いと言えるのですが、あえて『落人伝説』に生きている人達とも言えるのです。

 因みに、山口県下関市にある『赤間神宮』は『壇の浦』で生涯を閉じたと言う『安徳天皇』を祀る所として知られていますが、同時に『平家一門』を祀る所としても知られ、供養塔は『七盛塚』と呼ばれていると言うのです。
 この供養塔に連なる名前を見れば、それを思わざる訳にはいか無いと言えるのです。

 この『七盛塚』と言う物は、後年の天明年間(1781~1789)に関門海峡で頻発した漁船等の事故を鎮める為に設けられた物と言われます。
 つまり、当時の漁師達にはこの事故の原因が『壇の浦』等で討ち死にした『平家の武将達の祟り』と思われたと言う事なのです。
 その為に、『壇の浦』で討ち死にしたと言われる人達を中心に集めて供養したのが始まりであるとされるのです。

 この『赤間神宮』は更に後年の『小泉八雲(ラフカデ・オハーン・1850~1904))』の『耳なし芳一(1904)』の舞台となった所としても有名なところと言えますが、その源は或いは、この『七盛塚』にあったのではないかと思うのです。
 その『七盛塚』に祭られている武将と言うのは
  左近衛少将     『平有盛』
  左近衛中将     『平清経』
  左近衛中将     『平資盛』
  副将・能登守    『平教経(1160~1184又は1185)』
  参議・修理太夫   『平経盛(1124~1185)』
  大将・中納言    『平知盛(1152~1185)』
  参議・中納言    『平教盛(1128~1185)』
  伊賀平内左衛門  『平家長(生没年不詳)』
  上総五郎兵衛    『平忠光(藤原忠光・?~1192)』
  飛騨三郎左衛門  『藤原景経(?~1185)』
  飛騨四郎兵衛    『平景俊(生没年不詳)』
  越中次郎兵衛    『平盛継(?~1194・鎌倉で斬首)』
  丹後守侍従     『平忠房』 
  そして従二位・尼  『平時子(1126~1185)』
であると言うのです。

 これを見ると『平家落人伝説』と言う物はここから始まっている物とも思われるのです。

 ところで、『源氏の本拠地』と言われた関東にも『平家の落人伝説』を抱えた土地は残っているのです。
 でも、関東に住む人達から伺うと、些か冷ややかな目で見られている物が多い様な気がします。
 『源氏の地元とされる関東に、わざわざ逃れて来る平氏がいる物か?』と言う事であるのかも知れません。

 でも、本当は『なんでもありではなかったか?』と思うのです。
 計画的に『平家の落人』と言う事はあり得ないので、『偶然、その様になってしまった』と言うのが『平家の落人伝説』の様にも思うのです。
 しかし、その様に決め付けてしまうと、何故か淋しいのです。

 そこでこの様な『平家落人伝説』を思う時、私は当時の『交通事情』と『食事情』と言う物を考えるべきではないかと思う様になって来ているのです。
 つまり、彼等が冷静に見てどの様に逃れて、どの様な物を食べていたかと言う事を見直さなければならないとも思うのです。
 『伝説』と言うものは、今となっては創りえない話とも言えるのです。
 現代の感覚で『伝説』を見てしまうのは『勿体無い話』になる様な気がしてならないのです。

 そこで、この時期の交通網と言うものを見直してみたいのです。
 この時期は、日本の律令制下の設けられた『五幾七道(ごきしちどう)』と言われた行政区分に伴って設けられた『道』の時代であったらしく、その形は江戸時代に設けられた『五街道』の原型をなす物と考えても良いと言う物であるそうなのです。

 ただ、『日本の道』造り自体は、『鎌倉時代』に大きな変遷を見たと言うのです。
 ある意味では、この時代に『日本の道造り』が始まったと言えそうなのです。
 そして、その姿は『鎌倉街道』にそれを見ることが出来ると言う事なのです。
 『鎌倉街道』と名前の残る『道』にそれが偲ばれると言うのです。

 つまり、それまでの本格的な『日本の道』と言う物は、『大宰府』と都を結ぶ『山陽道』であって、この道には、30里(16K)ごとに『駅(駅家)』が置かれ、駅馬20疋が置かれていたと言うのです。
 その道は、外交上防衛上の重要性もあって『大路』と呼ばれていたと言うのです。
 そして、それ以外の道も交通量に準じて様々に造られており、これを『五畿七道』と呼んでいたと言うのです。

 とは言いながら、それまでの『日本の道』と言う物には、決まった造り方と言う物はなかったのかも知れないと思うのです。
 なんでもこの『鎌倉街道』を今に伝えると言う意味で、最も代表的なサンプルは『鎌倉七口』の一つ『朝日奈切通し』であると言うのです。
 私から見れば、単なる『山道』としか見えないものですが、見る人が見ればちゃんとした方法で造られた道であった様なのです。

 私もかって数度この地を訪れた事がありますが、今は『鎌倉散歩』等としゃれ込む人達の絶好のハイキングコースとなっている所なのです。
 歴史的ないわれも多い所ですので、『吟行』等にはふさわしい所なのかも知れません。
 『朝日奈切通し』は、現在では鎌倉市十二所と横浜市金沢区の境に位置すると言えるのです。

 この『道』は『古い伝説』では『和田義盛(1147~1213)』と『巴御前(生没年不詳)』の子供であったと伝えられる『朝日奈三郎義秀(1176~?)』が一晩で造ったとされる所なのですが、記録では鎌倉幕府3代執権『北条泰時(1183~1242)』が自ら工事を指揮して造ったと伝えられる所でもあるのです。

 つまり、『鎌倉幕府』にとっては軍事的に重要な所としての判断が行われた上での建設であった様なのです。
 地理的に『鎌倉』は守りやすい土地であった事から、『源氏』の本拠地として決められた土地でもあったのですが、それは同時に交通上の不便さも意味したと言うのです。
 その為、鎌倉幕府は『源平合戦』終了後、全国に対する支配を確立する為に交通網の整備する事に取り掛かり、後世に『鎌倉七口』と呼ばれた陸路の鎌倉の入口を整備したと言われるのです。
 現在では明治以前の名残を残しているのは『大仏切通し』『名越切通し』そして『朝日奈切通し』と伝えられる所であると言うのです。

 ともあれ『鎌倉街道』は、『鎌倉幕府』が関東諸国や信越・陸奥などに点在した『御家人』を『いざ、鎌倉!』と言う時に馳せ参じさせる為に設けた道とも言える様なのです。
 つまり、従来の『道』とは違い『軍事的な要望に応える色彩』の強い物であったと言うのですが、その『道』の特徴を見れば、
  ①、なるべく平坦で最短距離を結び、高低差の少ない坂道を選び部分的には曲がっていても全体的には直線的な道であった。
  ②、尾根や坂道では、掘割状の窪んだ道となり、台地や原野では道の両側に土手を築くことも多かった。
  ③、二里から三里の間に宿を設け、宿のある付近には社寺が多く設けられた。
  ④、宿の近在以外は台地・微高地を多く通り、又河川流域の段丘地帯多く通る事になったことから、自然と村と村との境を通る事になった。
 と言う事になる様なのです。
 言い方を変えれば、この頃より日本は多分に群雄割拠の『多民族国家』と似た様な国になって来たと言えるのではないかと思うのです。

 すなわち、『鎌倉時代』以前『道』は余りその様な事は考えておられなかったと言う事にもなるのです。
 私は『平家の落人伝説』や『源義経(1159~1189)』の逃避行『東下り』や『北行伝説』に思いを馳せる時その様に思ってしまうのです。
 ついつい、昔の人々は、どのような道を歩いていたのであろうかと考えてしまうのですが、この様に思えば多くの道は、今で言う『山道』ではなかったかと思ってしまうのです。
 でもその様に考えると、反面、現代の『秘境の地』が『源平合戦』の頃も、本当に『隠れ里』に相応しい『秘境の地』であったのであろうかと考えてしまうのです。

 現在の『交通路』と言えば、『鎌倉街道』の影響も大きく受けている為に、平野と呼ばれる地を歩くのが一番楽で早いとされています。
 果たして、それが出来れば、それに勝る事はないのですけれど、その様な所には大きな川も流れ、むこう岸に渡ることさえ難しかったと思うのです。
 その為もあって、人々は川幅の少ない山道を選ぶ事が多かったのではないかと思うのです。

 当たり前の事ですが現代とは大きく違う交通事情があり、その為に多くの『馬』も使われて『駅』と言う存在も特別な物であったと思うのです。
 東国に『馬』が多く育てられたのも、その為であった様にも思うのです。
 日本で『蹄鉄』が使われる様になったのは、明治に入ってからだと言われます。

 『草鞋(わらじ)』を履いた『馬』では、物は運べたとしても然程戦闘用には向かなかったのじゃないかと思うのです。

 その様に思えば『鎌倉街道』が各地に造られる前は、どちらかと言えば山際の地が交通の最重要地であり、その奥の地が『裏街道』となった『修験者』達の通る道であったと思うのです。
 つまり、必然的にその様な道を『落ち武者』達は辿ったかと思うのです。
 きっとその様な道は、少し入れば直ぐに姿を消しえたのではないかと・・・。 

 関東に残る『平家落人伝説の里』として強く伝えられる所は
 栃木県日光市湯西川
 栃木県塩谷郡栗山村
 群馬県利根郡片品村
 茨城県久慈郡太子町
 長野県水内郡栄村秋山郷
 長野県伊那市長谷浦
 等が知られますが、その地域に隣接していると思われる
 福島県南会津郡桧枝岐村
 新潟県中魚沼郡津南町
 新潟県佐渡市相川町
 と言う地帯に広がっている様なのです。
 現在の視点で言えば、『秘境の地』と言える様なのです。

 でもこれは、飽くまでも現代の感覚でと言う事になる様なのです。
 現代に残る『古文書』などを丁寧に見て行くと、現在の埼玉県川口市にも『平家の落人部落』はあったと伝えられるのです。
 何しろ『平家落人伝説』の残る所は全国に340箇所と言う人もいる位なのですから、関東周辺にもあり、これに留まらないとも言えそうなのなのです。

 ところでこの様な事は、これら関東の地域の『食生活』にも伺えるのではないかと言う事でもあるのです。
 よく一般に言われるのは、『当時の百姓達は何を食べていたか?』と言う事なのです。
 関東の食事上に詳しい人の話しに拠れば、その答に『米』と言う応えは出て来ないと言うのです。
 つまり、百姓は『年貢』の為に『米』は作っていたものの、それは『年貢』が余れば食べる事を許されたぐらいの物で、普段は『石臼』で作った『粉』を食べていたと考える方が自然であろうと言うのです。

 因みに、『資本論』の著作で知られる『カール・マルクス(ユダヤ人・1818~1883)』は、その著作の中で『総ての器械の基本形はローマ帝国が水車に於いて伝えた』と書き『機械の発達史は小麦製粉工場の歴史によって追及出来る』と述べているそうなのです。
 つまり、彼は『粉』を作る為に使った『石臼』は人類が使った最初の機械と見ている様なのです。

 この『石臼』の存在があったからこそ、ヨーロッパ等では『粉』を作り『パン食』が普及して行ったと伝えられるのです。
 その普及が目覚しかったヨーロッパ等では、結果的に企業化して動力源が人力・牛馬・水力と広がっていった様なのですが、日本の場合はその様な広がりを見せなかった様なのです。

 日本にも有史以前に中国から伝わった物とされていますが、それは大規模な発展は見せず、むしろ、家庭で使われる程度の物で終わった様なのです。
 その名残が各地に残る『うどん・そば』となるそうなのです。

 現代の日本人は『うどん』と言えば『讃岐』となり『関西』となる様なのですが、つい最近まで関東各地には『うどん』が欠かせない物であったと言うのです。
 つまり、余りにも『五公五民』や『四公六民』と言う税率が言われる為、百姓達が『米』を食べていたと思われがちなのですが、それは飽くまでも時の支配者達の建前であって、そんな事に頼っていたら百姓達は生きていけなかったと言うのです。

 つまり、彼等には常に『冷害』と『飢饉』が付きまとっていたと言うのです。
 すなわち、『飢饉』と『冷害』は常に起き、『冷害』ぐらいで死ぬ事はなかった様なのです。
 『冷害』で死ぬ事は許されない生活をしなければなかった事になるのです。
 その為には普段から常に『粉』を作りそれを『団子』状にして食べていたと思われるのです。
 『ムギ』から『粉』を作れば『うどん』になったと言えるのです。

 その名残が栃木県佐野市の『耳うどん』であり、山梨県に残る『ほうとう』であったと言うのです。
 『平家の落人部落』の料理としては『そば料理』が良く使われるのですが、それは『ソバ』が『そば切り』となった最近の事、それまではソバで団子を造って『蕎麦掻』の様に食べていたと言うのです。
 『飢饉』の多かったと言われる東北の地には今でも『はっと』や『つめり』と言う物が残りますが、言わば戦後の闇市で流行ったと言う『すいとん』の様な物が食の中心であったと考えられると言うのです。

 この影響は最近まで強く残っていた様で、関東の農村の『御呼ばれ料理』に『手打ちうどん』や『手打ちそば』は必ずに用いられていたと言うのです。

 この様に関東に伝わる『平家伝説』には、近くに東京と言う大消費地を控えていた為なのか、その悲哀があったと言える様なのです。
 その由来等が尋ねられると言う事で、本当に知らなくても由来付けてしまうと言う些か『無理をし過ぎた傾向がある』と思われる事があったのではないかとも言えるのです。
 つまり、余りにも具体化し過ぎたお蔭で、『平家に、その様な武将は居なかったのでは?』とか『それは本当に平家由来の話なの?』等となって行くようなのです。
 言わば『蛇足』の『愚』を行ってしまっているのです。

 私から見れば、実際の平家の一門の中に、その様な名前が見られなかったとしても、又、その故事が平家由来の物でなかったとしても、それがその人達の『願望』であったとすれば、極自然な事であったのではなかろうかと思うのです。
 『落人』故『目立ちたくない』『誤解されたくない』『贅沢をしているとは思われたくない』という気持ちは常にあり、『されど拠り所は持ちたい』という気持ちは常にあったのではないかと思うのです。
 それが『平家一門』に繋がろうと言う願望であれば尊いものではないかと思うのです。

 

677 『日本美女列伝』28 平家物語を彩る美女⑧ 外伝?4

 『壇の浦』を遠く離れている東北の地にも『平家落人伝説』は残っている様なのです。
 ただ、東北の地は『壇の浦の戦い(1185)』の数年後には大きな合戦が行われているのです。
 それは、1189年に起きた『奥州合戦』を指し、『奥州藤原氏の滅亡』と言う事態を迎える事を言うです。

 すなわち、それまでの東北の地は『北の王者』とも言われた『奥州藤原三代(清衡・基衛・秀衛 1105?~1187?)』の実質的支配下にあった地で、その中心地と言われた『平泉』は推定12万と言われた『京都』に次ぐ人口を持っていたと言われ、その維持せる兵力も17万と言われていた様なのです。
 現在の『平泉』は最近『世界文化遺産』に登録されたとは言え、人口はほぼ8300人の農村地帯と言えますから、まさに『栄華の夢』と言えるのかも知れません。

 それで無くとも東北の地は都を遠く離れていたこともあり、謎の多い『夷の国(えみしのくに)』ともされていたのです。
 当然の事ながら中央に繋がりは持つ物の、『保元の乱(1156)』『平治の乱(1160)』にも関知する事はなかった事からその兵力は常に温存されており、中央の『後白河院政(1158~?)』にとっても、それは特別視せざるを得ない存在でもあった様なのです。
 それは『壇の浦』で平氏を滅ぼした鎌倉の『源頼朝(1147~1199)』を中心とする関東武士の集団である『幕府』にとっても同じ事でもあったのです。

 ただ、『源頼朝』にとって、『平氏』を滅ぼして『関東武士による独自政権』の確立を目指す様になってからは、『奥州藤原氏』に対する要求も苛烈さを増して行ったと言うのです。
 『源頼朝』は当初『源義経(1159~1189)』との縁もあり、『奥州藤原氏』を吸収合併しようと画策し、それまで『藤原氏』が直接朝廷に対して直接行っていた『貢馬・献金』等を鎌倉を通す様に要求したらしく、『藤原秀衡(1122?~1187)』もそれに従っていたと言われるのです。

 しかし、1187年になって鎌倉の許可なしに『官職を得た』として追放される羽目になっていた『源義経』が奥州平泉に潜伏している事を知った『頼朝』は、『藤原秀衡』に対して身柄の引渡しを要求する事になるのです。
 その要求に対して『藤原秀衛』はこれを拒否すると共に、嫡男『藤原泰衡(1155~1189)』、長男『藤原国衛(?~1189)』、三男『藤原忠衛(1167~1189)』に『義経』擁護を遺言したと言うのです。

 その結果、鎌倉幕府は、1988年以来『義経追討』の『院宣』を二度に渡り獲得し『義経捕縛』を要求して来たのです。
 この要求に耐え切れなくなったと言う『泰衡』は1189年、平泉衣川舘を急襲し義経主従を全員、そして弟『忠衛』を殺害したと伝えられるのです。

 これによって『鎌倉幕府』は当初の目的を果たした様に見えるのですが、今度は『藤原氏』が許可なく『義経』を殺害したとして『奥州征伐』に乗り出す事としたと言うのです。
 この『奥州征伐』とは『源頼朝』が、全国に号令出来る姿を示す事にもなり、それによって全国から28万騎を動員したと言うのです。

 因みに、『源平合戦』のフィナーレとも言える『壇の浦の戦い』は、海戦と言う事もあり諸説が色々ありますが、源氏軍840余艘に対して平家軍500余艘と伝えられているのです。
 この激戦によって『平家の落人』が発生したと言われるのです。

 実際に、『奥州征伐』によって起こされた戦いが、どれほどの規模の物であったかは残されている記述が少ない様なのですが、少なくともこの戦いでも『壇の浦の戦い』を上回る『落ち武者』が出た事は、容易に想像がつくのです。
 自然に考えても『源平合戦』を凌ぐ、『落ち武者』は発生している事になるのです。
 しかし、それを物語る『落人伝説』は少ないと言えるのです。

 現実に、それを物語る『藤原氏の落人部落』としては、現在は群馬県利根郡みなかみ町になっている『藤原』と言う土地がある事からも判ります。
 伝えによると、彼等は奥羽山脈の山伝いに『尾瀬』『尊高』に逃れ来て、この地に根を下ろしたと伝えられるのです。
 表だって言えば、この地は『天慶の乱(939)』で『平将門(?~940)』を討ったと言われる『藤原秀(俵藤太・生没年不詳)』ゆかりの地、下野に近い土地と言えます。
 『奥州藤原氏』もその流れの中にあるとは言われますが、『藤原』を名乗る事に斟酌はなかった土地と言われます。

 この地を見直してみれば、地理的には『谷川岳』の麓にもなり、利根川の源流とも言える『みなかみ』と言う所にもなるのです。
 その為、雪深さでは関東一と言われ、余程の物好きでもない限り、この地域にあった『足利氏』『新田氏』等の鎌倉の有力御家人等も関心を示す事はなかった様なのです。
 言わば、『関東の秘境』と言う人もいるのかと思います。
 
 因みに、その手前に位置するとも言える『湯檜曽温泉』と言う所は、『前九年の役(1051~1062)』で破れ落人となった『安倍一族』が開いた温泉と伝えられ、それを物語る様に『安倍頼時(?~1057)』とその子『安倍貞任(1019~1062)』『安倍宗任(1032~1108)』の墓と言う物も立派な形で存在するのです。
 しかし、この中の誰もがこの地で死んだという記録はないのです。
 おそらく、祖先のゆかりを示す為に敢えてこの地に立てられたものと思います。
 私は機会があって、その村人と話す事がありましたが、『今はそれ物語る資料と言う物はない、度重なる火事でそれは殆ど焼けてしまった』と言うのです。
 ただ、この地にはそれを物語る物として子ども達向けの『絵本』もあり、彼女はそれを見せてくれたのでした。

 ところで、『奥州藤原氏』の後裔が作った土地が現在の山形県酒田市とも伝えられるのです。
 この街には『三十六人衆伝説』なる物が今も残っており、『市の歴史』を物語る物として伝えられているのです。
 それは、戦いに敗れた『奥州藤原氏』の一党36人が『藤原秀衛』の側室とも妹とも伝えられる『徳の前(徳尼公・生没年不詳)』を奉じて、この地に逃れて来て、この地で平和に暮らしたと言う話なのです。
 なんでも『徳尼公』は90歳まで一族の冥福を祈って静に暮らしたと言うのですが、36人は『地侍』となって、この地域の開発に大きな力を果たしたと言うのです。

 元々、この地域は『奥州藤原氏』にとって『京都』等から『仏教美術』などが入って来る湊として知られていてたと言うのです。
 どうやら、『日本海ルート』と言うべきものがあり、更に『最上川』をさかのぼり、陸路を『平泉』に運ぶ道があったと言われるのです。
 思えば、『源義経』が京都から逃げて来た道でもあったのかも知れません。

 『日本の航海路』として有名な『北前船航路』の完成は、ずっと後年の江戸の元禄時代の1672年の『河村瑞賢(1617~1699)』の『西回り航路』の開発をまたならなければならないのですが、『三十六人衆』の彼等は、この時期から『廻船業』を営み、『西の堺、東の酒田』と言われる基礎を作って行ったと言われるのです。
 つまり、彼等の作った『酒田湊』が無ければ、今日の『酒田港』は無く『北前船』の存在も無かったと言えるのかも知れないのす。

 この様に、この時期に『落人』と言わた人達が其々に集落を造って棲んで、新たな開発を行なっていった事は、青森県五所川原市近くの『十三湊』にもあり、然程珍しくない事と言えるのです。
 『平家の落人部落』と言うイメージとは違っているとは言えますが『平家の落人伝説』は東北にも残っているのです。

 現在の酒田市に伝わる伝説としては『出羽富士』とも『秋田富士』とも呼ばれる『鳥海山(2236)』山麓に残るものなのです。
 これは平家の一門として『壇の浦』で討ち死にした『池田源三郎』と言う武士の五人の息子が『能登半島』から源氏の追及を逃れ『鳥海山』の麓にたどり着いたという事から始まる話であると言うのです。
 つまり、『平家の落人伝説』と言っても、少々九州や四国・中国に残るケースとは違いが認められるのです。

 ともあれ、その逃亡にある程度、目安が付いたこともあるでしょうが、次に考えた事は、共に襲撃され一族が滅亡すると言う事であったと言うのです。
 それを恐れた『池田彦太郎秀盛』を始めとする五人兄弟は、其々に分かれて棲む事を決めたと言うのです。
 なんでも、現在の酒田市八幡と言う土地は,兄弟が『別れの酒宴』を行った土地として知られ、荒瀬川のほとりにはその『酒宴』を行った所として『兄弟水酒盛り塚』と言う場所があると言うのです。

 伝えによれば、長男の『秀盛』は『泥沢』と言う『鳥海山』の山中に、二男は『升田』と言う谷の奥地、三男と四男は『芹田(せつだ)』と言う所に、そして末の弟は現在の『遊佐町』にあたる平坦とも言える『豊岡』に、其々分かれて住んで村を作って行ったと言うのです。
 因みに、八幡と言う土地は現在の酒田市の北部に辺り、北隣を『遊佐町』にする所でもあるようです。
 聞けば、彼等を租とする人達は鎌倉時代を生き延びて、大事な指導者ともなって行った様なのです。
 この地方の出身者としては、横浜開港を提起し、国鉄の創始に際し重要な働きをして『国鉄の父』とも呼ばれた『佐藤政養(1821~1877)』がいると言うのです。

 同じ様に宮城県や山形県の境に当たる朝日連峰に隠れ住んだ『平家の落人』と言う人達は、他にもいた様なのです。
 ある意味では、この地は『山伏』の本場とも言える地域なのです。
 その意味では、一番『隠れ里』を造りやすい風土にあったとも言えそうなのです。

 つまり『山伏』とは山の中をひたすら歩き続ける事を修行とする人達の事なのです。私達にすれば、『源義経』の『安宅関』などの画像ともダブル姿として知られる物ですが、奈良吉野山の『大峯山(金峯山寺)』『大山(鳥取県)』『羽黒山(山形県)』等『霊山』と呼ばれる各地の山々を踏破する事を中心として難行苦行を行って、山が持つ霊力を身に付ける事を目的とする宗教であると言うのです。
 ある意味で長い道と言う点では、最も早く確立された道であったと言えそうなのです。

 なんでも、世に言う『天狗(てんぐ)』や『烏天狗(からすてんぐ)』の装束は『山伏』の装束に起因する物と言うのです。そして、よく知る人の話では、宗教的に似ているのは『ユダヤ教』ではないか?と言うのです。
 『ユダヤ教』の装束に『テフィリン』と言う物があるそうで、とても『山伏の装束』に似ている物で、なんでも元を辿れば『古代ヘブライ』に行き着くと言うのです。

 ともあれ、宮城県仙台市の山中に残る『平家伝説』と言うのは平家の『一ノ郎党』と言われた『平貞能(たいらのさだよし・生没年不詳)』に因む話なのです。
 この『平貞能』と言う人は、本拠を伊賀国に置いていた武将で『平氏』にとって将来を嘱望されていた『平重盛(1138~1179)』の指揮下にあった子息『平資盛(1158~1185)』の腹心の者と言われた人であったそうです。
 そのため、1167年『平清盛(1118~1181)』が家督を長男『平重盛』に譲ると共に『平資盛』の補佐役としての役割も高まり、彼は筑前守・肥後守として九州地区の支配を任されたと言われるのです。
 因みに、その時関東の坂東武者達の支配に当たったのが、主君を資盛の兄『平維盛(1158~1184)』とする、前のブログで書いた宮崎県椎葉村付近の伝説として残されている『平景清(藤原景清・生没年不詳)』の父『平忠清(藤原忠清・?~1185)』でもあり、彼は『坂東八カ国の侍の別当』と呼ばれたと言うのです。
 つまり、二人は其々に『平重盛』の子供達の臣となって『平氏』を支える中心人物でもあったのです。

 ところが、『平重盛』が亡くなり『平清盛』が亡くなると、後継者は嫡男で三男の『平宗盛(1147~1185)』が継ぐ事になり、何事も尊王第一であった『重盛』の流れの中にあった人達は、取り残される形になります。
 『平貞能』もその例に洩れず、彼の検索は『平宗盛』によって悉く退けられる事となり、その中でも大きかったのは『都落ち』の件であったと言うのです。
 つまり『平氏の都落ち』が決定する中で、彼はただ一人徹底的に反対したと言うのです。

 『平家物語』や『源平盛衰記(成立年不明)』『愚管抄(1220)』鎌倉幕府の歴史書とも言われる『吾妻鏡』の大きな差が見られるのは、この頃からだと思うのです。
 なんでも、『平重盛』の流を汲む人達は、この頃から『平氏第一』の宗盛に対して離反する動きを見せていった様なのです。

 『平貞能』も手勢三十騎で引き返し、西八条の屋敷の焼け跡に大幕を張って味方の帰りを待ったと言うのです。
 しかし、友軍は誰一人として戻ってこず、『この上は、重盛の墓が敵の馬蹄に駈けられず』として、墓を掘り起こして、遺骨を抱く僧となってしまい『高野山』への旅に出たと言うのです。
 その後暫くした1184年、宮中にあった時代の同僚が『宇都宮城主(宇都宮朝綱・1122~1204)』になっている事を頼り『源頼朝』に降伏を申し入れたと言うのです。

 『源頼朝』と言う人は、弟の『源範頼(1150?~1193?)』や『源義経(1159~1189)』に対する態度から、とかく冷徹で非情な人と見られがちな人ですが,それは『平氏』の中にあって『身内には、一層厳しく接しなければ、武家集団は維持出来ない』と言う想いが強かったのかも知れないのです。
 因みに、源氏は二代将軍となった『源頼家(1182~1204)』の娘『竹御所(1202~1234)』が四代将軍となった『藤原頼経(1218~1256)』に嫁ぎますが、難産が原因で亡くなり、『源頼朝』の源氏の血縁は正式に耐えたといわれます。
 『源実朝(1192~1219)』が暗殺されて以来、『源頼朝』の後継者が期待されていただけにこの報が御家人達にもたらした影響は事の外大きく,彼等はこぞって鎌倉に集まったと言うのです。

 『藤原定家(1162~1241)』は、これを見て『平家の遺児たちを、ことごとく葬り去った報いであろう』と日記に書き残していると言うのです。
 『源頼朝』自身にもその悲しさはあったのかも知れません。
 たぶんその為だと思いますが、女の人や『勇者』として評判の高い人には、かなり甘い反応を示していると言えるのです。
 おそらく、結果を心配せずに、他人を『褒められた』のではないかと思うのです。

 その面では『平貞能』は間違いなく『勇者』であったのです。
 『源頼朝』は『平貞能』を『宇都宮家』預けとして、『もし、平貞能に反目の動きあらば、宇都宮家も取り潰す』と厳命した言うのです。
 歴史的にはこの時点で『平貞能』の名は消えます。

 つまり、これから先は『平家の落人伝説』となるのです。
 ですから、この伝説は『宇都宮城』のあった宇都宮市を中心に存在する事になるのです。
 現実に『平貞能』の墓所と言う物が茨城県東茨木郡の『小松寺』、栃木県益子町の『安善寺』、宮城県仙台市青葉区の『西方寺』にあると言われますので『平家の落人伝説』はそれらの土地にもあるのです。

 伝えによれば『平貞能』はとりあえず『塩原温泉郷』のある『塩原』に流されたと言うのです。
 『塩原温泉郷』と言う所は、現在の栃木県那須塩原市にある11の温泉からなる処なのですが、その歴史を見れば開湯は806年と言いますから日本でもかなり古い温泉地と言えそうです。
 元々縄文時代の遺跡もあり、古くから人が住むには便利な土地でもあった様なのです。

 つまり平安時代からの歴史も確かな物として伝わる所とも言えるのです。
 それは、温泉街を訪れてみれば直ぐ判るとも言えるのです。とは言っても多くの温泉地の様に陰りと言うものは見えると言えます。
 でも、現在では『トテ馬車』なる観光用の馬車も運行され、今に残る史跡として『源三窟(げんさんくつ)』と言う史跡もあるのです。

 この『源三窟』と言う呼び名は『源頼政(1104~1180)』の孫である『源有綱(?~1186)』に由来する小さな『鍾乳洞』なのです。
 私も一度入ってみた事はあるのですが全長50mぐらいの鍾乳洞としては小さな物で、説明によれば『源義経』と同様に『源頼朝』に終われる立場となった『源有綱』が隠れ住んだと言う所で、この鍾乳洞から流れ出た米のトギシルが、隠れ場所を知らせる原因となり、討たれる事となったと伝えられる場所なのです。
 聞けば、その時彼も二十代であったと言われる事から、土地の人達が哀れみ祖父の『源三位頼政』と言う名をもじって『源三窟』と名付けたと伝えられるのです。
 思えば、当時の私は彼が『源』と言う姓であった事から、彼を討ったのは『平家』とばかりに勝手に思っていたのです。

 それから比べれば、はっきりとした史跡としては残っていないのですが、1184年に『平貞能』が『宇都宮朝綱』を頼って塩原に『草庵』を結んだと言う記録も残っていると言うのです。
 ただ、これから先『平貞能』にどの様な人生が待っていたかは、ハッキリしない事となる様なのです。

 これまでの経過から『平貞能』の墓が栃木県の益子町や茨城県にある事は納得し易いのですが、現在の仙台市青葉区大倉上下に隠れる様に住んでいたという話も残るのです。
 ただ、この様に仙台市青葉区と言ってしまうと、この地は何か都会の様にも思うのですが、実際は奥羽山脈の『船形山(1500)』の麓の土地でもあり、となりは山形県尾花沢市に隣接する土地です。

 この『船形山』は山形県側からは『御所山(ごしょさん)』と呼ばれ、鎌倉幕府によって佐渡島に流された第84代『順徳天皇(1197~1242)』が島を脱出して移り住んだとも伝えられる所なのです。
 つまりこの地域は1200m級の連山に囲まれていることから『仙台カゴ』『最上カゴ』と言う修験道の言葉も存在すると言う土地で、山伏の山岳修行が盛んに行われている土地なのです。
 言わば、伝承と信仰に恵まれた土地とも言え、『平貞能の平家伝説』もその一つと言えそうなのです。

 今では、この地は、彼の名前から『定義(じょうげ)さん』とも呼ばれていると言うのです。
 すなわち『貞能(さだよし)』が『定義(さだよし)』となり、この地方の言葉の濁り(仙台弁)から『定義さん(上下さん・じょうげさん)』ともなって行ったと言うのです。
 そういう『平家落人』ゆかりの寺として1700年頃に作られたと言う『西方寺(さいほうじ)』と言うお寺が『定義如来(阿弥陀如来画像軸)』を本尊として祀り、庶民信仰の祈祷寺院としてあると言うのです。

 『平家の落人の里』として『貞能』が住んだ跡を示すのが第81代『安徳天皇(1178~1185)』の冥福を祈って建てられたと言う『天皇塚』があると言うのです。
 しかし、私の目で見て、現在この『西方寺』が有名とされるのは、その様な歴史的な由来と言うよりはその門前で売られていると言う『三角油揚げ』や『味噌味の焼おにぎり』にあると思うのです。

 この様なことを軽々しく言っては、『仏罰』を受ける事となるかも知れませんが場所は『作並温泉』の奥ともなり、コースによっては『秋保大滝』に抜けることも出来ると言う『行楽コース』の中にある寺とも言えるのです。
 車を使えば、仙台市内からほぼ一時間の所にあると言えるのです。

 門前の集落外れにある、『定義とうふ屋』の手のひらサイズの『三角油揚げ(1枚110円)』が人気を集めていると言うのです。
 なんでも、当地では『手作り豆腐』と肉厚の『三角の油揚げ』の揚げたてを店先にある醤油と唐辛子をかけて食べている人も多いと聞きます。
 なんでも、市内に帰るバスを待ちながらと言う人達も多いそうなのです。
 そして、この食感に魅了され『お土産』に買って帰る人も多いと聞きます。
 その為なのでしょうか、最近は仙台の名産物ともなって各方面のイベント等でも取り扱われる事が多いと聞きます。

 『油揚げ』と言う物は薄切りにした『豆腐』を油で上げた物ですが、同じ様に作られる『生揚げ』とは違い薄く切った物を水切りした後120度くらいの温度で一度揚げ、更に200度くらいの高温の油で二度揚げ三度揚げする物だと言います。
 話題になっている物としては、この地の『三角油揚げ』を始め、新潟・栃尾の『アブラゲ』、愛媛・松山の『松山あげ』等がありますが、比較的安いこともあって人気の高い食材になっていると言うのです。

 ただ、上手に使うには直前に『油抜き』などの作業が要求され、これを怠ろうものなら思いのほか『油っぽい』料理になってしまいます。
 思えば、私も若い時分新婚の友人のお宅で『稲荷寿司』をご馳走になった事があります。新婚の奥様は、それを知らなかったのか?それとも『お嬢様育ち』と言う事がそれをさせているのか?・・・。食べる方としては余り数は食べられなくなると言えます。
 私も、果たして『それを言ってよいものか?』迷った挙句、何も言えずに帰った記憶もあるのです。
 因みに、この『油揚げ』と言うもの通常の『冷蔵』では保存の利かない物なので、『安売り』などで多く手に入れた場合は、『冷凍庫』を使うと長期間保つ様なのです。

 ところで『油揚げ』と言うものの発生を資料を元に辿りますと、その先は『室町時代』と言う事になるそうです。ただ、具体的なことは判らないという事なのです。
 なんでも『葛の葉』の伝説や信太・信田などの地名は関西に多く、平家の落人によって作られたと言う『豆腐の味噌漬け』などを思うと、その発生地も関西ではないかと言う人が多い様なのです。
 尤もこれは後世の『きつねうどん』等と関係する事なのかもしれません。

 この様に『油揚げ』が実際何処で何時初めて作られたかは定かではないのですが、私などが次に頭に浮かぶのは、日本の古代信仰とも言える『稲荷信仰』の『お使い番』として知られるお『キツネ』様の好物とされる事なのです。
 『何で、キツネが?』と思うのです。でも、昔話などによれば、元々はネズミの油揚げで、それが殺生を禁じる『仏教の教え』の影響もあり、代わりに『豆腐の油揚げ』がその様になって行ったと言うのです。
 ですから、実際に『キツネ』の前に『油揚げ』を出したとしても期待する様に喜ぶかは判らないという事なのです。

 道草はこのくらいにして『定義の三角油揚げ』に戻ります。
 記録によりますと『定義とうふ店』の『三角油揚げ』が売り出されたのは明治23年であると言いますので、ほぼ、120年の歴史を持っている事になるのです。
 聞くところによりますと、この『三角油揚げ』の食感は、外はサクサク中はシットリとして意外な旨さがあると言うのです。
 おそらく、この様な『油揚げ』の食べ方が広まって行った為でもありましょう、『飲兵衛』達の気に入る事となって、今では居酒屋の中心メニューとなっている所も増えて来ていると言うのです。
 今では、『西方寺』門前の名物となって、多い日は一日7000個も売るといわれる山門脇の清水館の『やきめし(丸い味噌味の焼おにぎり)』と並び人気を集めていると言うのです。

 ところで、これも更なる余談となってしまいますが『おにぎり』と言う物も見直してみればとても面白い物であると思うのです。
 『おにぎり』と言う物は、日本ではなんでも弥生時代から食べられている物であるそうなのです。その時分は『米』の生産量も少なかったことからその遺跡の統治者達によって食べられていた様なのです。

 『おにぎり』というものは、日本流の規定では『砥いで炊いた米に味を付けたり、具を入れたりして三角形・俵型・球形に加圧成形した食べ物で、作り置きが可能であり携行に優れた面を持つ事から、古くから日本の主食ともされて来たもの』となる様なのです。

 この様に改めて『おにぎり』を定義付け様としますと、何か妙な気持ちもしますが、実体は『米飯の残り飯の保存や携行の為』に作られて来たとも言えるものですから、同じ様に米作地帯と言われる中国・台湾・韓国・タイなどでも『おにぎり』と言う物は作られてもいるとは言うのです。
 ところが、その様な国には『米をとぐ』と言う習慣がそれ程徹底した物ではない様で、その様に炊飯された物は、冷めると著しく味が落ちると言うのです。

 つまり、その様な習慣と言うか『階級意識』を持つ国では『飯は温かい内に食べる物』と言う意識が極端に強く、その為冷えたご飯やおにぎりは『下賎な者が食べる物』『仕方のない時の携行食』と言うイメージが強くあるものの様なのです。
 ですから、それらの国々ではあえて『おにぎり』が工夫され、食べ続けられる事は無かった様なのです。

 それに対し日本の場合は、特殊と言えるかもしれないのですが、平安時代の書物からも伺われる様に『頓食(とんじき)』と言う名前で登場していると言うのです。
 その他の記述から総合すれば、この時分は楕円形をしていた大きいもので、おそらく『蒸したもち米』を使った物であろうと推察される様なのです。
 その後、現在の様な『おにぎり・にぎりめし』になって行くのです。

 そして、更に色々調べて見ますと『米』が支配者達の食べ物であった事を示す様に『おにぎり』を食べる『作法』と言う物があると言う事にめぐり合う事が出来たのです。
 その『作法』とは、手に直に持って口に運ぶのが基本であるとされますが、弁当などにセットされた俵型のものは箸を使って食べるのがマナーであるとされると言うのです。
 又、手に持っての食べ方としても。歯跡が目立たない様に端から食べて行き、水平に削ってゆくのが作法で、『御所の女房言葉』として『おむすび』と言う物が登場すると言う事なのです。

 ある説によれば、その為に『おむすび』の握り方として『三角』に握ると言う方法が普及(流行った)したのもこの為と言うのです。
 この様な話は、どちらかと言えば『思い込み』と言う事も多い事なので、『必ず間違いのない事』とは言い切れ無いと言える事なのかも知れません。

 ともあれ、それは『高貴な生れ』の人達の事、東北の地では極最近まで、『白米』を食べる事さえ難しかったのですから、『清水館のやきめし(焼おにぎり・220円)』が売り出されたのも、最近の事である様なのです。
 なんでも、従業員が仕事の合間に食べていた物が、お客の目に留まりそれが人気を集めて行ったと言うのです。
 今では、『ササニシキ』と『ヒトメボレ』のブレンド米を炊き上げて、炭火で焼き上げたおにぎりに秘伝の仙台味噌に工夫を加えた味噌を塗って、『やきめし』という名前で販売していると言うのです。
 なんでも『西方寺』が縁結びや安産にご利益があると言われる事から、良縁にあやかって、『にぎりめし』の形は丸く『縁結びのやきめし』としているそうなのです。

 ところで、この様なお寺の門前に行くと何時も不思議に思う事は、お寺の門前には何故か必ず『玉コンニャク』の様な物が売られている事なのです。
 この『玉コンニャク』は『スルメ』と『酒』と『醤油』で味を付けるのが一番良い方法で有ると聞きますから、『安価』である事が取り柄なのかも知れません。
 門前にある事が多いのでので、何か由来があるのかと調べてみたのですが、その宗教的由来は判りませんでした。
 考え過ぎであったのでしょうか。

 この様なことを考えるのが好きなのか、『コンニャク』の事を調べてみました。
 それによると、どうやらそのもとである日本の『コンニャク芋』の事から見直していかなければ判らない様なのです。

 おそらく、お寺の門前の『玉コンニャク』を見ても、その地が日本の代表的産地とされる群馬県や栃木県・茨城県であれば、それ程不思議には思わなかったでしょうが、『コンニャク芋』と言うのは元々は原産地が南方のインドシナ半島で、北限が宮城・山形付近であるなどと言う事を聞くと、疑いは止まらなくなったのです。

 聞けば『コンニャク芋』ば、『サトイモ』と同じ多年草である為に九州・鹿児島付近では自生している物があるそうですが、瀬戸内・岡山付近では畑の中では冬を越せないので、秋には必ず掘って保存し、又翌年植えなおさなければいけない作物であるそうなのです。
 言われて見れば、『サトイモ』と同じ様な『芋』である事は、今更ながら納得出来るのです。

 どうやら、『コンニャク芋』と言う物は、一年だけでは使えなくて3年ぐらいは、其々植えなおす必要がある物であると言うのです。
 でも、五年も経つと花を付ける様になり、そうなると今度は『食えなくなる』と言うのです。
 この様な事を考えると、『コンニャク芋』と言う物は作りにくいものとも言えます。
 増して、栽培の北限の地と言われては、東北の露地栽培では簡単に続け、採れない筈なのです。

 更に言えることは、余り知られていない事とも言えるのですが、『生のコンニャク芋』には、『シュウ酸カルシウム』と言う物が含まれていると言われますので『エグミ』が強く、『毒』が含まれていると言う人さえいる様なのです。
 現在は商品の多くが、加工済みの『コンニャク粉』から作られている様なので、その様な事が意識される事は滅多にないのですが、その反面最近は『手作りが良い』等と言われ『生芋』から直接作る人も多くなっていると言う事なのです。
 その人達はそれを注意しなければいけない事なのかも知れません。

 それにも拘らず『コンニャク』作りと言うものが、広まって行ったという国は日本だけであった様なのです。
 今でこそ『コンニャク芋』は中国や台湾などで栽培され、中国の栽培量は日本の10倍以上であると言う事なのです。
 ハッキリとしたデータ上の事は判らないのですが、これは日本の影響を受けての事だと言うのです。

 ただ、『コンニャク芋』が食べられる事は昔から知られていた様なのです。
 記録によれば、中国では紀元前300年とあると言うのですが、先日、『北京』出身の料理人に聞いてみたのですが、彼は日本に来て初めて知ったと言っていました。
 日本にも在来種と言うものはある様なのですが、日本で現在作られている多くの『コンニャク』は中国から渡って来た物であり、それに更なる改良を重ねた物であると言うのです。

 ではそれは何時頃から日本で作られているかと言う事になりますが、それは仏教の伝来と一緒とも 980年頃と言われる様なのです。
 歴史として見ればかなり古いのです。
 ある人の話によれば、日本に渡って来た『コンニャク芋』に、先ずあったのは着物の『糸』作りのための『蚕(かいこ)』の養殖ではないかと言う事なのです。
 だから、『コンニャク芋』は、『忘れ去られなかった』と言うのです。

 つまり、その人の話では、『コンニャク芋』も始めは注目されていた物ではなく、『桑の木』の間に植えられたものであったと言うのです。
 そして、『コンニャク芋』が『生』のままでは食べられない物であったので、広まって行ったと言うのです。
 言ってみれば『彼岸花』の様な存在であったとも思うのです。
 いずれも、『毒を抜く、工夫無し』では食べられない『芋』と言える物であったのです。

 それが、勤勉とも言える日本人の性格に『合った』と言えるのかも知れないと言うのです。
 それが、江戸時代頃に本格的に普及して『雨降れば こんにゃくづくり 湯気の中』となって農民の間に広まって行ったと見るべきだと言うのです。

 聞けば、『コンニャク芋』には、『運玉(うんだま)』と言う別名もあり、それを物語っていると言うのです。
 なんでも『コンニャク芋』と言う物は、現在の『コンニャク』と言う商品からは想像出来ないほどデリケートな植物で、強すぎる日光や風、水はけの悪いところでは上手く育たず、葉に傷が付いただけでも病気になる物であり、その為育てた経験が物を謂うとも言われるのです。
 その結果『コンニャク芋』は、一般の家庭でもよく作られてはいたものの、出来不出来の差は大きく、現在の様に生産量重視と言う点からは造られ難い物であった様なのです。

 これは、前述した『サトイモ』にも言える事なのです。そして,取れた『芋』に傷つけようものならすぐに腐ってしまい、同じ『芋』でも『サツマイモ』とか『ジャガイモ』と言う様なものとは雰囲気が大分違う物であったことを覚えているのです。

 ともあれ『コンニャク』が、大量に生産できる様になったのは1776年であったと言われるのです。
 この様に『コンニャク芋』の栽培には多くの問題があって、計画的に『コンニャク』を生産する事など出来なかったのですが、水戸藩の『中島藤右衛門(1745~1825)』が『コンニャク芋』の根が乾燥させると腐らない事に気が付いて、『コンニャク芋』を『粉状』にする事を思いついたと言うのです。

 この『清粉法』が開発されて以来『白いコンニャク』が広まる事になったと言うのです。
 ただ、『コンニャク芋』から『コンニャク』を作っていた人には、この事は多分に異和感を抱く人もあって、評判も必ずしも良いとは言えなかったと言うのです。
 つまり、『コンニャク芋』を使った場合、芋を皮ごと摩り下ろす事が多い事から,色が付く事が多かった様なのです。
 その為、意識的に色を付ける事もやられた様なのです。
 現在では、海藻を使って色を付けていると言うのです。

 つまり、『コンニャク』と言う物が、大量に消費される様になったのは、江戸時代に入り、100万人と言う消費都市が出来た、1800年頃からと言えそうなのです。
 その広まり具合は、江戸の庶民の言葉として『芝居・コンニャク・イモ・カボチャ』と言う言葉が残されている位だと言うのです。
 この言葉は、大阪で言えば『イモ・タコ・ナンキン』に当たる言葉と言える様で、女性の最も好きな物を、言い易いように並べた物に過ぎないと言えそうなのです。

 ともかく、その原因として見逃せ無いのが、何と言っても『コンニャク』の食感であった様なのです。
 あの『プルプル』した感覚は、他の食品には無い物で、特に庶民にとっては『烏賊(いか)の刺身』以上の物であったのではないかと思うのです。

 ところで、お寺の門前に多い『玉コンニャク(玉コン)』の事ですが、東北のお寺の門前にある訳は、その地域が貧しくて『砂糖』や『お米』が十分に手には入らなかったと考えるべきで、その由来は『羽州街道(福島県桑折宿ー青森県津軽)』筋の茶店に於いて『団子』の代わりに出されたと伝えられると言うのです。
 因みに、江戸時代この街道を参勤交代に利用した藩は、13藩『上山藩・山形藩・天童藩・長瀞藩・新庄藩・庄内藩・出羽松山藩・矢島藩・本荘藩・亀田藩・久保田藩・黒石藩・津軽藩』であったそうなのです。
 

676『日本美女列伝』27 平家物語を彩る美女⑦外伝?3

 ところで『平家の落人部落』と言うのが存在する所は、日本全国にさまざまなところに及び、人によっては特に『平家の三大落人地域』等として、九州の肥後(熊本)・日向(宮崎)の『椎葉村・五箇荘』、四国の阿波(徳島)・瀬戸(愛媛)の『平家谷・祖谷谷』、そして越中(富山)の『五箇山』を挙げる人もいるそうなのです。

 現代で言えば観光上の『日本三大秘境』ともランクされるべき所で、現代人の目からしてみれば『山奥』でもあり『交通の便の悪いところ』となり、『貧し過ぎる』様にさえ思われがちな処となる様なのです。
 見方を変えて、地域の生業と言えば『非稲作地帯』なるとも言え、それを物語る物が『平家』が残した『三大民謡』と言う物になると言うのです。

 その『三大民謡』とは先のブログで紹介した『ひえつき節』であり、四国に残る『祖谷の粉引き唄』、そして今も富山に残る『こきりこ節』であると言うです。

 つまり、『平家の落人部落』の共通点は『お米』もとれ無い所であったとも言えるのです。
 『ひえつき節』や『粉引き唄』の実体は『粉作りの唄』に他ならないのです。それも『歩留まり』の良い『麦』や『米』を轢いて『粉』を作るのではないのです。
 歩留まりの悪い『稗』『粟』などの雑穀と言われる物、場合によっては更に歩留まりの悪い『葛粉』『ワラビ粉』等の『木の根』『草の根』等叩いて『粉』を作る事に専心せざるを得なかった様なのです。
 その為、『朝は朝星、夜は夜星(明けの明星から宵の明星が出るまで働く)』と言う厳しい仕事の姿が要求され、その苦しさも『唄』に伺えるのです。

 でも、見方を変えて見れば、それに近い状態は農村等でも日常茶飯事な事であり、『飢饉の年』ともなれば、更に忙しさが増して行った様なのです。
 何とかして、『食べられる物』を造り出さなければならず、『一揆』など起こす余裕は無かったと言う事なのです。

 つまり、当時の世の中は誰も彼もが『お米』を食べられる状態ではなく、多くの『山村』『農村』の人達は、其々に『粉』と『野菜』で自分達の『食べ物』を作っていたと考えた方が無理の無い事の様なのです。
 つまり、長い間日本では支配者であった人達は『米』を食べていた様なのですが、多くの庶民にとっての『米』は、作り納める『お金』の様な物であったにしても、自分達が食べられるものではなかったと言えそうなのです。

 簡単に『百姓一揆』が起こる等と言う事が話題となって来るのは、時代が下り『米』を食べた経験のある、なしが話題の中心になって来てからの時代の事だと思われるのです。
 それも、『米』を食わなければ生きられないと思える時代にならなければ、起こりえない事と考えるべきでは無いでしょうか?

 それを具体的に物語る物が私の出身地に残ると言えるのです。
 その地は現在の岩手県一関市です。昔から東北の地は『白河以北一山三文』と言われる様にあまり評価の高い所とは言えません。
 しかし、一時は『奥州藤原三代』の繁栄がある様に知的レベルは中央を凌いでいたと言う時期はあるのです。

 一関は言うなればその『奥州藤原氏』の地元に辺り、鎌倉幕府は『奥州合戦(1189)』以後、戦功を立てた御家人豊島氏の一族『葛西氏』を置いてこの地方の支配にあたらせたと言うのです。
 『葛西氏』はその後、戦国大名となって『大崎氏』等と激しい攻防を繰り広げ、一時は『伊達氏』と結んでいたと言いますが内紛等で衰退していったと言うのです。
 結果的に『葛西氏』は『豊臣秀吉(1537~1598)』の『小田原征伐(1590)』不参加で改易されるのですが、其れだけにその武力等は温存されたと言えるのです。
 その為、この地域の意識は比較的高い物で、やがてそれは『大崎・葛西の一揆』となって『伊達藩』を悩ます下地となって行った様なのです。

 その様な流がある為か、一関は『一揆』が頻繁に起きていた所と言われるのです。
 その為、『伊達藩』もこの地には、過敏なほどの神経を使っていたらしいのです。
 その現われが、一関の支配者に現れていると言うのです。

 当初から『伊達藩』としては、この地を別格の扱いとして『伊達政宗(1358~1405)』の十男『伊達宗勝(1621~1679)』を置いてこの地の支配に当たらせたものの『樅の木は残った』で知られる事件で彼は失脚してしまい一時断絶の『一関支藩』となるのです。
 かといってこの地には、葛西氏の影響も多く残っていて、そのままと言う事にしておけず『伊達藩』はそこで改めて、1682年に『伊達政宗』の正室『愛姫(めごひめ・1568~1653)』の実家『田村家の再興』を名目として、再び『一関藩(田村藩)』が設けられたのです。

 記録によれば、『伊達藩』は当時でも『六十二万石』もある国なのです。言わば、戦国時代の数々の城をあつめた結果としての領土ともなるのですが、『江戸幕府』の施政方針としてあったのは飽くまで『一国一城』としたと言う事なのです。
 その為に『伊達藩』に数々あった城砦は『要害(ようがい)』と名を変えて存続したと言う事になるのです。

 話を元に戻しますと、江戸時代中期に書かれた蘭方医の『建部清庵(1712~1782)』の表わした『民間備荒録(みんかんびこうろく)』が登場したのはこの頃の様であったのです。
 この『民間備荒録』と言う書物は、中国の明の時代に書かれた『荒政要覧』と言う書物を参考とした物と言われますが、彼が所属していた伊達支藩の一関藩(田村藩)』の『要害』の周辺でしばしば起こっていた『一揆対策』の一つとして作られたものとも言えるのです。
 すなわち、『飢饉』の対策の為の書物『救荒書』として、1755年に書かれたものであった様なのです。

 つまり、その内容と言うのは上巻では『飢饉』に備えて食用になる樹木を植え、食糧を備蓄する方法を伝え、下巻では具体的に草や木を食べる方法、それに伴う解毒や応急手当等を書いていると言うのです。
 結果的に185種もの『食べられる草木』を紹介し飢饉対策とした物の様なのです。
 更にそれに続き1771年に発行された『備荒草木図』ではそれらの植物を絵図で表わそうとして蘭学者の『杉田玄白(1733~1817)』、本草学者の『平賀源内(1728~1780)』等の協力を仰いだと言うのです。

 この『民間備荒録』は、言って見れば『185もの新たなる食品』を紹介した事に他ならず、直ちに藩によって採用され、奉行・代官によって藩内の村々に配られ大きな成果を収めたと言われるのです。
 普通なら、見逃しがちな草木も『飢饉』ともなれば大事な食料ともなるとの教えは、農民にとって忘れ去られていた知識とも言え、その知識を教えるという事は大事な交流の基礎ともなって行ったと言われるのです。

 この結果、この地域を中心として起きた『一揆』は『葛西・大崎の一揆』として有名だった様ですが、これ以後の『伊達藩内の一揆』と言う物は激減し、影を潜めてきたと言われるのです。
 因みに、『百姓一揆』の回数は、ある記録によれば、江戸時代の270年間に『盛岡藩』が97件、安芸『広島藩』が67件、『秋田藩』が65件、萩『長州藩』が61件、金沢『加賀藩』が57件と言う記録が残ると言うのですが、『一関(田村藩)』を抱える仙台『伊達藩』の数字は31件と記録されていると言うのです。
 幕末には表高『六十二万石』と言いながら、その実高は『二百万石』と言われた『伊達藩』の力を造ったのは、この様なところにあったと言えるかも知れないのです。

 時代が下り昭和になって、この地域の『庄屋』の家に生まれた私の叔父も、思えば、とても『野草』に詳しい人でもありました。
 その教えを受けた為でもありましょう、その娘も今は都会住まいですが一寸した空き地があり、少し時間に余裕があれば、何時の間にか食べられる野草を手にしていた事を思い出すのです。
 あの様な姿を見ていると、『季節の食べ物』楽しさを感じ、日本に生まれた幸運を感じるのです。

 そして、それだけでなく、現代では『野菜』と名がついた物でなければ『食べられない物』と思われている様ですが、それは『思い過ごしでしかない』という事にもなると『ホクソエム』ことも出来るのです。

 今日の様に文化が発達し進歩して行くと言う事は、人間にとって『良い事』には違いは無い事とは思いますが、その分『判らない事』も多くなっていく様な気がするのです。『新しいことを知る分、古い事は忘れて行く、結局はおなじ事かも』そんな風に思えることは、『世捨て人』にとっても楽しい事なのでもあるのです。

 当然の事ながら、この様な事は一つの小藩に留まることはなく、大きな噂ともなって行った様で、1771年には江戸でも出版され、『一の関に建部清庵あり!』と囁かれたと言いますが、同時に『一の関に過ぎたるものが二つあり、時の太鼓に建部清庵』と陰口が叩かれたと言うのです。

 つまり、『建部清庵』の属していた『一関』は、あの『赤穂義士』で有名になった『浅野匠之頭切腹(1701)』の屋敷としても知られる『田村右京太夫の中屋敷』としても知られる国表なのです。
 その『討ち入り』の余韻、未だ覚めやらぬ中で、『清庵』を評価する一方『一関藩』を揶揄(やゆ)する様に言われた言葉であったのかも知れないのです。

 特に『赤穂義士びいき』と言われた人達にとっては、その祖先が征夷大将軍『坂上田村麻呂(785~811)』にあるとされる事ぐらいでは追いきれぬ事であったのかも知れないのです。
 実際、『一関・田村藩』は、祖先が『坂上田村麻呂』と言う事で江戸幕府からも特別視され ていたらしく、僅か三万石の伊達支藩ながらも、特別な一藩としての別格の待遇を受け御三家格で無いと認められない『時の大鼓』が認められていた事と並び称されたという事なのです。
 その様な事に対する『揶揄(やゆ)』がその様な言葉の背後にあった様に思えるのです。
 『白河以北、一山三文』と言われていた事を思い出すのです。

 ともあれ、『建部清庵』と言う人は個人的にも『解体新書(1774)』を表わした『杉田玄白』や蘭学者としても名を知られそのリーダー的存在であった『平賀源内』と言う人達との文書交流も深く、『民間備荒録』にも多大な助力を得ていたと伝えられ、蘭方医としての実績も高い人であったと伝えられるのです。

 因みに『建部清庵』の地元には、出雲平野の『ツイジマツ(築地松)』、砺波平野の『カイニョ(垣入)』と並んで有名な『散居村』の農家の『屋敷林』として『イグネ(エグネ・居久根)』と言うものがあります。
 基本的には農屋の立替の為の木を家の周りに植えて防風林を形作っていると言う物ですが、この『民間備荒録』の発表以来、様々な樹木が加えられて行って『飢饉対策』ともされて行った様なのです。

 つまり、これから観ても『自給自足』と言う観点で見れば『山村で暮らす』と言う事は『農村や街で暮らす』ということ以上に暮らし易い物であるそうなのです。

 確かに『壇の浦の戦い(1185)』に敗れた平家の公達には、過酷な現実として『米を食えない』と言う現実が来たのかも知れませんが、元々この時期『落ち武者』が地方を訪れる事は多かったと思われます。
 歴史を見ても、『前九年の役(1062)』『後三年の役(1087)』で敗れた奥州の『安倍氏』『清原氏』、『保元の乱(1156)』『平治の乱(1159)』で敗れた京都の『源氏』『平氏』、そして『奥州合戦(1189)』で敗れた『平泉藤原氏』等、結果的に戦いに敗れ『隠れ里』に住んだ人達は続いているのです。
 つまり、『落ち武者』と言われる人達は思った以上に多かった時代でもあったと思うのです。

 その様な人達は言わば直前まで支配者であったとも言えます。少なくとも『食』と言う事に対する不安はなかったと思うのです。
 その人達が『米を食えなくなった』事は、驚きであったと思いますが、庶民と言う人達には『米』と言う物がない分、それらの土地で生きるには『協力して生きる』事しかなかったのではないかと思うのです。
 私は、その為その様な経験のなかった彼等には、思いがけない『安らぎ』が生れたとしても不思議はなかった様に思うのです。

 昔私達が、習った『新しい教育』の下では、日本の農業は『稲作』が中心であった様に捕らえて、『米を食えない』という事がどれほど大変な事であったかを説明しようとする様です。
 事実、創成期の時代劇等もその様に捉え、表現してる様なのですが、実際に私が今まで見聞きして来た事からすれば、それは些か無理がある様に思うのです。
 しかし、私の時代でさえ思えば、子供の頃には『学校に昼食を持って来れない子供達』さえいたのです。
 その事から観ても、簡単に『米作り』が全国的に普及して行ったとは思えないのです。

 現代の『専門家』と言われる学者さん達の中には、その様な人達はいらっしゃらなかったのか?
 『日本の稲作』は中国の揚子江下流や江南地域から直接海を渡って来たものと考えられ、農具等にも独自の変遷の跡等が見られない事から、素直に九州に渡って来て全面的に日本に広まって行ったと考えられるとする人もいるそうなのです。

 しかし、今の私はそれを素直に信じられないのです。
 何か『米造り』そのものに余り関心が無い人の話に思えて仕方が無いのです。
 『水田耕作』と言う物は『それ程簡単なものでは無い!』とも思うのです。
 私から見れば、『米作り』は『焼き畑農業』『畑耕作』の延長線上にはある物の、『水田耕作』には常に『水利』と言う宿命が生まれ、絶えず『灌漑』と言う観念が付いて回る事になるからなのです。

 『焼き畑農業』と同じ様な性格を持つ物として考えられるのは、ヨーロッパの『ブドウ造り』なのです。
 基本的にヨーロッパ等の『ブドウの木』と言う物は、農業的に『ちゃんとした土地』に育つ植物と言うよりは、『水利』に乏しい『荒地』に向いている植物と言えます。
 その為、ヨーロッパ等では『この土地ではブドウかオリーブぐらいしか作れない!』と言う嘆きの言葉が聞かれると言うのです。
 それに対して『日本のブドウ作り』は『水田耕作』の影響が強い為なのか、殆どが『棚作り』を基本として、果実としての『ブドウ作り』を中心にして発達して来たと言えそうなのです。

 ヨーロッパ等に見られる『ブドウ造り』は日本人から見れば『信じられない事』ともなって来るのです。
 つまり、ヨーロッパなどの主に斜面を利用して作られる『ブドウ造り』には水の跳ね返りの心配がない事から棚が必要とはされず、立木から直接『ブドウ』を採取する形のものが主流となっているのです。
 すなわち、『水田耕作』等に見られる『あまりある水』と言う物は必要とされない物でしかなく、その事が農業に与えている影響も強いものの様なのです。

 この為なのか、ヨーロッパの農業には『灌漑』と言う概念等は比較的薄いものであった様なのです。
 田舎育ちの私から見れば、日本の農業にとって『何よりも大事な物』は『水利』と言えそうですが、ヨーロッパ等のそれは『水』よりも大切な物が『天候』ともなり『日差し』でもあったと言えそうなのです。

 それ故に、『フランスワイン』には『ビンテージリスト』なる物が存在し、『畑』の名前で『ワイン』の値段が決まって来ると言う事が起きて来るのです。
 現実に『同じ村』でも『ブドウ畑』が道一つ隔てた事によって、葡萄の値段が違う事にもなり、出来る『ワイン』の値段にも大きな差が出て来る事になるのです。
 私に言わせれば、『日本人は直ぐ値段で判断したがる』と言われますが、外国の『ワイン』等の『食べ物』こそ、『値段』を見て『食べ物』の良し悪しを判断するのが『間違いのない事』の様にも思うのです。

 そして『大陸には土地が広くある為なのか?』とも思いますが、『灌漑』と言う観念に比較的薄さを感じる事もあるのです。
 つまりこれは大きな『誤解』となる事なのかも知れませんが、どうやら大陸にある彼等の農業は作れない所には作る必要はなく、『植え付け』さえ出来れば、後は『天任せ』の様に見えて仕方が無いのです。
 日本の様に様々な工夫を加えて『作れる様にする』と言う事は、殆ど感じられないのです。

 例えば、『焼き畑農業』と言う物があります。
 『焼き畑農業』の特徴は農業的には『粗放的な農業形態』と言え、耕転・施肥と言う様な事は一切行わず、必要とされる事は作物の栽培後に農地を一定期間放置して、地力の回復を待つと言う事であるそうです。
 この農法には、基本的に『灌漑』を利用する観念はなく、只管に『雨』を待つ『天水農業』とも言える物なのです。
 日本の人達は、この『焼き畑農業』の下に働いていたとしても、次には『灌漑』を考え畑地の転用を考える様なのです。

 何故なら、自然の事ながら、出来る作物も限られて来る事になるからなのです。
 具体的に言えば、『焼き畑農業』で作れるものは『カブ』『ダイコン』や『キャッサバ』『ヤムイモ』『タロイモ』『サトイモ』等のイモ類、穀類でも『ヒエ』『アワ』『ソバ』『ダイズ』『アズキ』『ムギ』『モロコシ』などに限られると言うのです。

 前のブログで書いた宮崎県椎葉村等では今も行われていると言うのですが、何事にも『お金』と『公率』が判断の基準になる現代になってしまえば、それは『身体だけがしんどくなる』と言われりして急速に衰退して行った『農業形態』であったと見られるのです。
 つまり、『麦』や『芋』を作る事の最大の利点は『天水農業』で可能であったと言う事にある様なのです。

 一方では、この様な事を『食文化』と言う面から見る必要もあると言います。
 『食文化』と言うのは『食べ物』を『民族』『国家』『宗教』『風俗』など各方面から考察する事によって新たなる見識を培う物であると言います。
 具体的には『食材』『調理法』から『食器』『マナー』『外食産業』等食事に関わる各方面からの総合的な試みを加えて行かなければ『食べ物』は理解出来ないと言うのです。

 確かに歴史を考えても『麺類』の普及や『香辛料』の普及等、多角的に観て行かなければ『食文化』の変化と言うものは理解しきれず、今日の様に世界が狭くなって来てしまうと、その由来さえもハッキリしなくなって、やがて『郷土料理』も消え『郷土』と言われる『故郷』さえ無くなってしまうと言えるかも知れないのです。
 その意味でも『食文化』を考える事は、たとえ『異文化』の土地の物だったとしても意義のある事かもしれないのです。

 その様な事から見直して見ますと、ヨーロッパ等の外国では食材として『麦』を作りそれを『粉』にして焼いたりして食べて来たので『粉文化』であったとも言われます。
 一部には、日本を『米文化の国』と規定付けたいが為に此処に差を求めている人もいるのかとも思いますが、私は日本も元々は『粉文化』の国であったと思うのです。

 つまり、日本の場合は『粉』の原料をヨーロッパの様に『麦』に求めたのではなくて、『木の根』『草の根』に求めていたと思われますし、取れた『粉』を使って『団子』にして食べていたのではないか、それから『うどん』『そば』が生まれて来たのではないかと思うのです。
 山国であった故、沢山取れた『根』から『粉』を作る事も可能であったと思うのです。

 その最大の欠点と言えばその『歩留まり』の悪さです。
 現在では『葛粉』ワラビ粉』として『和菓子』等の高級素材として認められる物も多いのですが、『芋類』でもない限り『根を叩き潰して、真水にさらす』と言う『和紙』を作る様な作業が要求される事になるのです。
 本当に『朝は朝星、夜は夜星』と言う『根張り強い』労働が要求され『夜這い唄』としても歌われたのではないかと思うのです。

 言語学者でもない私がこの様に決め付けるのは些か問題であると思いますが『根気よく・・』等と使われる『根気』は『根』を叩き潰して『粉』を作る事から来ているのではないかとも思うのです。

 とにかく、私にすれば『平家の落人話』と言うのは『平家物語』以上に『ロマン』を覚える話です。
 私が『もう滅び行くだけ・・』と言う感情に憧れを感じている訳でもないのですが、素直に楽しめる感情でもあるのです。

 ともあれ、『楽しませてくれる要素が多い』のが『平家物語』であり『平家の落人伝説』だと思うのです。
 『先が無い』と思ったとしても、決して『あの世に憧れを持ちたい、自殺したい』等と言う訳ではないのです。
 むしろ、死んでゆく人に簡単に『この世を捨てる人は出て来ない』のです。『運悪く早く死んだ』としても、その人達には見事に『理由が付いている』のです。
 不思議な事にそれがなければ、それは『怨念』となって、この世に留まる事になるのです。そして『落人伝説』ともなって生き続けているのです。

 聞けば、最近躍進が『目覚しい』と言われる隣の『韓国』と言う国では、非常な『自殺』増加の現象が起き、それは日本の比では無い物になっているそうなのです。
 なんでも、その原因の多くは『受験地獄』等の激しい競争に敗れたと思っている若い人達にそれは多いと言うのです。

 『良い会社に入る為には、良い大学へ入らなければならない。それに失敗したら生きている意味は無い!』と成るそうなのです。
 飽くまでも『個人の責任が一番であり、それを誤まっては回復の道さえも無い』となって行くそうなのです。
 『韓国』には『一日も早く日本を追い抜け』と言う『合言葉』もあるそうで、そんな中から生まれて来た『理念』でもあったかも知れないというのです。

 果たして、その真偽を理解する能力を私は持ちません。
 しかし、最近『人気が高い』と言われる『韓流ドラマ』等を覗きますと、何か『勧善懲悪』の傾向の強い『チャンバラ映画』を思い出し、『それもあるかな?』等と思うのです。

 見直してみれば私達『団魁の世代』には、欠くべからざるものとして『赤胴鈴之助(1954~)』等の『チャンバラ映画』があったと思いますし、それを現代風に置き換えて作られたのが『月光仮面(1958~1959)』『仮面ライダー(1971~1973)』等が現われ、この流が、やがて既に登場を見ていた『ゴジラ(1954)』等を転用させる事によって『怪獣ブーム』となって来たと言えるのです。
 つまり、これらの『スーパーマン』の様な存在と言うものは『団魁の世代』にとっては一種のストレスの『はけ口』の様な存在であったかと思うのです。
 後世、その流が『勝ち組』の人達の『ドラマ』となって来たにすぎないと思うのです。

 『歴史は繰り返す』とは言いますが『平家物語』に書かれている時代も、現象的には『武家の厳しい闘争の時代の物語』と言えるのですが、現代の世代にすれば、『試験地獄』に置き換える事も誤りではないと思うのです。
 とりあえず、『源氏と平氏の対立の時代』として両者を対立させるものの、それは飽くまでも後世の人達の『勝手な方便』でもあった様に思うのです。
 現代に成っても数々残る『平家の落人伝説』には、その事を物語る物が多い様に思うのです。

 確かに、平安時代末期に『この一門にあらざらむものは、みな人非人なるべし(平氏にあらずんば人にあらず)』とまで言われ、『平家物語』によれば一時は一門の公卿は16名,殿上人30余名,諸国の受領・諸司60余名と言う隆盛を見せた『伊勢平氏』なのですが、その期間は極めて短かったと言われるのです。
 『平氏の隆盛』は『北面の武士』であった『平正盛(?~1121)』が『源義家(1039~1106)』の次男『源義親(?~1108)』を討伐して『平氏』の名をたからしめ、その子『平忠盛(1096~1153)』が、『白河院政』『鳥羽院政』と結びつき、更にその子『平清盛(1118~1181)』が『保元の乱(1156)』『平治の乱(1160)』を制した事から始まったと言えるのです。

 つまり、結果的に見ても『平家の隆盛』は『壇の浦の戦い(1185)』までと見るべきですから『平氏の栄華』と言ってみても、その期間は僅か20年余りと言う事なのです。
 『平家の落人部落』に残る伝説等を見てみると、同じ『平家物語』でも、新しい魅力を加えてくると思うのです。
 そして、『平家物語』を読んだ上での『平家の落人伝説』は、例え短い伝説でも格別な物があると思うのです。
 『平家物語』を『滅びの文学』と言う人は少なくない様なのですが、本当に『滅びの美学』と言う物を感じさせられるのです。

675『日本美女列伝』26 平家物語を彩る美女⑥外伝?2

 日本全国に『平家の落人』と言う人達が創った部落と言うものがどのくらいある物かは本当のところは定かではないそうである。
 聞くところによれば、北は東北山形県の酒田から南は沖縄宮古島まで本当に数を数え始めたら『きりが無い』と言うことなのです。

 なんでも、世の中にはそれを追及してみようとする人もいて、それに依ればその数は全国43都県に於いて340ヶ所もあると言うのです。
 ただ、今の世となってしまっては『大きな誤解』も考えられると言うのです。
 『平家の落人伝承』と言う物が、たぶんに混同されて理解されている状況が極めて多いとも言われている様なのです。

 どうやら思い違いが多く、具体的に言えば『平家の落人』とは、源平合戦において『平家方に与して落ち延びた人達』の事を言うのですけど、それは『平家に味方して戦った』だけの意味であった事を忘れてはならないと言えるのです。
 その為、『平家の落人』=『平氏』と言う図式は成り立たないと言えるのです。

 つまり『治承・寿永の乱』と言う点から『源平合戦』を見直してみれ、それは確かに『源氏』と『西海に覇を唱えた伊勢平氏』との争いに見えるのですが、『究極的』には京都で『公家の文化を継承し様とした伊勢平氏』と坂東(関東)に下って『武を持って成合を為すとした坂東平氏』の争いであったと言うのです。

 結果的には『伊勢平氏』が大軍を擁しながらも東西決戦に敗れたと言う事にもなり、それは多くの『公家文化に基づく伝説や伝承』を生んで来た事にもなった様なのです。
 それは、平家に仕えた城氏一族が起こした『建仁の乱(1201)』や伊勢平氏の残党と言う人達が起こしたと言う『三日平氏の乱(1184・1204)』にもうかがえると言えるのかも知れません。

 確かにこれらの事件は、『鎌倉幕府』に対する謀反行為とも言えるのですが、余りにも発作的なものであったとも言え、『三日の乱』と言われる様に極めて短期に結末を迎えている様なのです。

 始めの『三日平氏の乱(1184)』と言う物は、『伊勢平氏』の元々の地盤とされた伊勢・伊賀国で『木曽義仲(1154~1184)』の侵攻時に起きたものなのです。
 それは平安時代末期の1184年7月の『木曽義仲』の京都入洛に対して、『源頼朝(1147~1199)』が送った鎌倉軍と対応する様に起こった『伊勢平氏』の蜂起の事を言う様なのです。

 つまり、平氏は『倶利伽羅峠の敗戦』が原因ともなって京都を離れる事になるのですが、伊勢・伊賀の平氏自体にはそれはなく、むしろ、当初は『鎌倉の源氏』に呼応する様に起こったもので、その為、規模もそれなりに大きなものであった様なのです。
 一説には、その始めは『源義経(1159~1189)』に協力して『木曽義仲』を京都から追い落とす為であったと言われている様なのです。
 つまり、彼等にとって『敵』と言う物はあくまで『木曽義仲』であって『源頼朝』ではなかった様なのです。

 おそらく、『帝の住む京都』と言う意識が極めて強く、『自分達の本拠は、福原(神戸市兵庫区付近)』という事であったのかも知れないのです。
 私達は『平家都落ち』等と聞くと悲壮感も漂う物ですが、それ程のものではなかった様な気もするのです。

 しかし、実際の『鎌倉軍』にとって、それはなく、あくまで『平家追討の一環』としての『木曽義仲軍の討伐』であった様なのです。
 その為、『伊勢』『伊賀』の『平氏の蜂起』も直ぐ敗走となったと言い、平家の武将『平信兼(生没年不詳)』『平家継(?~1184)』『藤原忠清(?~1185)』等が残る平家の残党を率いて反乱を継続したとなっているのです。

 その抵抗は規模の割にはきわめて小さかった様で、其々の本拠で大きくとも100騎程度の抵抗だったと伝えられているのです。
 その為、彼等の勢力も間もなく表面上はこの地から姿を隠して行き、平安時代の『三日平氏の乱』と言う言葉だけが残ったと言える様なのです。
 因みに『藤原忠清』と言う人は、前のブログで書きました『平景清(藤原景清・伊藤景清)』の父であったとされる人で、この後も潜伏を続け六条川原で斬殺刑となるまで都を悩ましたと伝えられるのです。

 これよりこの様な表立っての『平氏落ち武者の反乱』と言う物の多くは、隠された『平家伝説』の世界に入って行き、歴史の上では消えて行った物と思われがちなのですが、さりとてそれ以後も水面下では『平氏の反乱』は続いているのです。
 極端に言えば、今となっては『地元の人以外に知る人はいない』事とも言えそうなのですが、それはそれから約二十年後の鎌倉時代になっても続いて起きているのです。

 鎌倉時代の『源氏武家政権』に対する叛乱と言えば私達は、承久3年(1221)に起きた京都の公家の勢力挽回の為に『後鳥羽上皇』を中心として倒幕の兵を挙げた『承久の乱』だけが有名とされる事になりますが、規模は小さい物の『平氏の反乱』と言う物も確かにあったのです。

 その一つは、先のブログで書きました『木曽義仲』の愛妾と言われた女武将『巴御前』と並び証される女傑『坂額御前(ばんがくごぜん・生没年不詳)』も登場する平家の家人でもあったと言われる『城長茂(じょうながもち・1152~1201)』を中心とする城一族が起こした『建仁の乱(1201)』であり、それを引き継ぐ様に起きたのが『伊勢平氏』の残党とされる『若菜五郎(?~1204)』等が、現在の三重県亀山市や四日市市を中心として起こした鎌倉時代の『三日平氏の乱(1204)』と言われる物なのです。
 
 時代的に言えば、『源頼朝』の急死によって、それまで鎌倉幕府の中心的存在ともなっていた『梶原景時(1140~1200)』が『梶原の乱』で討たれ、次いで同じ様に信認の厚かった『比企能員(ひきよしかず・?~1203)』が『北条時政(1138~1215)』『北条義時(北条得宗・1163~1224)』親子との確執によって滅ぼされてからにもなり、幕府自体が将軍『源頼家(1182~1204)』と『源実朝(1192~1219)』の継承問題に揺れていた頃の話とも言えるのです。

 すなわち、『城長茂』と言う人は平氏政権下で『木曽義仲討伐』等の重要な任務を与えられていた有力者でもあった様ですが、『軍略の才』と言う点では非常に乏しく、おまけに『非常に短慮』な人であったと伝えられているのです。
 ですから、人に対する評価も『雰囲気のままに・・・』と言う所が多く、善意に解釈すれば『勇気のある』、慎重な人から見れば『考えが足りない』ともなり、行動もその様に見られがちな人であった様です。
 
 その為、『平氏滅亡』後は『梶原景時』を唯一の理解者として、その庇護の下にあったと言うのですが『梶原景時の変(1200)』でそれを失ってよりは、京に於いて幕府の要人の屋敷を襲うと共に『後鳥羽上皇(1180~1239)』に対して『源氏討伐の院宣』を下す様に画策したと言うのです。
 しかし『院宣』が降りて来る事はなく、最終的には幕府の討伐軍の追捕を受ける事となり、大和吉野にて討たれてしまったと言うのです。

 『城長茂』と言う人の元々は、越後に本拠を置いた『桓武平氏』の一族で『平将門(?~940)』とも戦った『平貞盛(?~989)』に家系が行き着く人であった様で、その為越後国には隠然たる勢力を持っていたと伝えられるのです。
 この事から彼の甥の『城小太郎資盛(生没年不詳)』は叔母の『坂額御前』と共にこれに呼応する形で、現在の新潟県胎内市にある『鳥坂城(とっさかじょう)』に籠もったというのです。

 この時の『坂額御前』の有様を『吾妻鏡』は『童形の如く上髪せしめ、腹巻を着し矢倉に上に居て、襲い来る輩を射ていた』と描き、これに苦労した幕府軍は『後山を廻り、高所より能くこれを窺い見て矢を放つ。その矢件の女の左右の股を射通す。即ち倒れるの処清親郎等生虜る』と書いているのです。

 首謀者の『城資盛』は何処へともなり逃れ去り、これによって越後の『城氏』は全く滅亡したと伝えられるのですが、『坂額御前』はその後『源頼家』の前に引き出されても臆する所が微塵も無く『勝ち負けと言うのは戦のならいで仕方の無いこと、この上は見事に首を落としてみよ!』と言い並み居る鎌倉武士達を、感嘆せしめたと言うのです。

 そして、1203年末にこれに続くように起きたのが、『伊勢平氏』の地盤とされた『伊勢国』と『伊賀国』で起きた『鎌倉時代の三日平氏の乱』なのです。
 具体的にはこの反乱も僅か実質12日間で平定されたと言われ、翌年(1204)初めにはそれも決着が付いていた事からこの名がある様なのです。

 つまり、『伊勢平氏』の一族と称する『若菜五郎盛高(?~1204)』や『萩原小太郎(生没年不詳)』等が『平氏の残党』と称して1000名の軍勢を集めて、伊勢の守護であった『山内首藤経俊(やまうちすどうとしつね・1137~1225)』の舘を急襲して逃亡させたと言うのです。
 反乱軍が『鈴鹿の関』などを指し固めるに至った為、幕府も『反乱』と認定し討伐軍を派遣し、京都守護の『平賀朝雅(ひらがともまさ・?~1205)』を派遣して平定に当たらせたと言うのです。

 ある意味では幕府の混乱に付け込み、『平氏の時代をもう一度』と言う企てだったのかも知れません。
 しかし、幕府の体制は想像以上に強かった様で、『彼等の夢』は瞬く間に消え去ったと言えそうなのです。

 しかし、鎌倉幕府周辺ではこれ以後も『北条氏』をめぐる血なまぐさい抗争が続く事になります。
 因みに『平家物語』の成立を見たのは1260年頃と思いますが、平家の滅亡が『壇の浦の戦い』の起きた1185年となります。

 此処で、それまでの歴史的事実を列挙して見る事にします。
 たぶんに、『判りきっている事』ともなりますが、私の様な者には『思い違い』と言う事も多い事なので、その意味でも改めて見つめ直してみたいものなのです。

 1184年旧2月 『一の谷の戦い(現神戸市須磨区)』
      旧7月 伊賀・伊勢で『三日平氏の乱』起こる
 1185年旧3月 『屋島の戦い(香川県高松市)』
      旧8月 『壇の浦の戦い(山口県下関市)』
      旧11月 『鎌倉幕府』成立
            守護・地頭の任命権獲得
 1187年     『源義経』の引渡しを奥州『藤原氏』に要求
 1189年旧4月 『源義経』自殺
      旧7月 『奥州征伐』開始 9月『藤原泰衡』を討つ
 1192年     『源頼朝』征夷大将軍に任ぜられる。
 1193年     『曽我兄弟の仇討』発生
 1199年旧1月 『源頼朝』急死
 1200年旧1月 『梶原景時の変』
 1201年旧1月 『建仁の乱』起こる
 1203年     『源実朝』三代将軍へ、二代将軍『源頼家』隠居
      旧9月 『源頼家』を奉じて失地回復を図る『比企能員の乱』
           『源頼家』修善寺に幽閉
      旧12月 伊勢・伊賀で『三日平氏の乱』起こる
 1204年旧7月 『源頼家』暗殺
 1205年旧6月 『畠山重忠の乱』起こる
 1206年     この頃『ジンギス・ハーン』が『モンゴル統一』を果たす
 1213年旧5月 『和田義盛の乱(和田合戦)』起こる
 1215年旧2月 『北条時政』死す
      旧6月 『ジンギス・ハーン』が『金』の都、北京を占領
 1219年旧1月 『源実朝』、『公暁』に暗殺される
 1221年     『承久の乱』起こる
 1224年     『北条義時』死し、『北条泰時』後継者となる
 1225年     『北条政子』死去
 1227年     『西夏』がモンゴルに滅ぼされる。
 1234年     『金』がモンゴルに滅ぼされる
      旧7月 二代将軍『源頼家』の娘『竹御所』が死亡
           これによって『源頼朝』の血筋は完全に絶える
 1240年     この頃『平家物語』が完成を見たと思われる。

 私にとって興味ある物事を中心に作って見たのですが、『言い伝えとしての平家の落人伝説』も出来るものならば、書き加えてみたいものなのです。

 ところで、私の様に『五対不満足』そして『世捨て人』とも見える状態でいると、とかく世間の人達は『古い事には詳しいのではないか?』となる様なのです。
 おそらく『新しい事は、聞いても判らないだろうから・・・』ともなるのでしょう。
 或いは、『適当にしゃべらせておけば、後が楽』と言う程度の事なのかも知れません。
 確かに、年を重ねて生きて来たと言う事は『簡単には諦め切れない事が多くなると 言う事であり、その為物事にしつこくなる』とは言えるのです。

 だいたい、この様なブログを書くことも、忙しい若い人では出来ない事なのです。
 よく、世の中ではパソコン等が出来て来た事により、若者の能力も『遺憾なく発揮出来る』と言いますが、それは飽くまで『期待』に過ぎず『決して出来る』と言う事ではないのです。

 それはパソコンの能力を充分に使った上での事、『ゲーム事』に熱中するだけでは『ゲームお宅』と言う人達を作り出す事しか出来ないのです。
 尤も私とても、パソコンで情報を拾い出す事に喜びを感じ、『古き知識』を呼び起こして長い文章を書いているだけとも言え、『生産性の無い事』では殆ど変わらない事とも言えるのです。

 つまり、私の大きな弱点は『歳の割合には知っている筈のことを知らない事』にあり、本当はそれを聴ける人もいないという事にあるのです。
 だからパソコンを使ってるだけとも言えるのです。
 すなわち、『平家物語』の女性を知りたくとも知る事が出来ない事にあるとも言えるのです。
 これを世の中の人々は『閉じこもり』とも『弧立化』とも呼んでいるのです。

 ところで私は『平家物語が好き』と言っても、原文を読もうとしているわけでもありませんし、しっかり理解している訳でもないのです。
 実際は『平家の家紋』なる物が『何物』であるかも私は知らないのです。
 私が『平家物語』と最初に出会った頃は、『平家の家紋』を知ることも、知る術さえ限られていたと言えるのです。

 おそらく『源氏の代表的家紋』が『笹竜胆(ささりんどう)』である事を知る人に比べて『平家の代表的な家紋』が『蝶(揚羽蝶・あげはちょう)』である事を知る人は、大分少ない様な気がするのです。
 その『笹竜胆の家紋』とて私は『曽我兄弟の仇討』を映画で見て、何故か印象的であったから覚えているに過ぎないと思うのです。

 ともあれ、『家紋』と言う物を研究している人に話を聞くと、日本の『家紋』と言う物は、鎧の『兜飾り』が一般化したものと言うのです。
 なんでも、ヨーロッパ等で用いられている『紋章(Coat of arms)』とおなじ物で、象徴(Symbol)とも捕らえるべきものだと言うのです。
 ヨーロッパでも『紋章』は一族・家族で共有することも多く、個人主義とは言うものの大切に共有されていると言うのです。

 なんでも日本独自の文化とも言える『家紋』が発生したのは、客観的に見れば『平家物語』に取上げられている時代だと言うのです。
 それまでも調度品や器物・家具に装飾目的として色々な文様を描く事は行われて来たと言われますが、平安時代に入ると貴族達がそれを牛車(ぎっしゃ)等の胴に付けて自己主張する事を覚えたと言うのです。

 どうやらそれが、『源氏』『平氏』『藤原氏』『橘氏』と言った強力な武力を持っていた人達に使われて、更に同じ氏族の人達との区別を図る為に用いられた物であると言うのです。
 その為『源平籐橘(げんぺいとうきつ)』と言う言葉が『家紋』のスタートの言葉として残っていると言うのです。

 同じ様な目的で、住む土地の名前などを『屋号』とし、それが『名字』へと変化して行った事は誰もが知る事とも言えますが、『家紋』はその家の独自性を示す固有の目的的なものとして生まれて来たとも言えるというのです。
 その為、『武家』や『公家』等が積極的に使う様になり、『家紋』を見れば、血統や元々の帰属勢力が判り、その人達の信用度も高まっていったと言うのです。

 勿論、その一方各地の豪族達に新たな『家紋』を作る動きも起って来たと言うのです。
 ですから『家紋』の制作については、あくまで自由であった様ですが、他家の家紋との兼ね合いも生まれ無闇勝手に作る事には限界が生まれ、『暗黙の了解』と言うのも必要となって、特にその地位が高ければ高いほど配慮が必要とされたと言うのです。

 それでも、現在日本に於いて確認されている物だけでも『家紋』は241種5,116紋があると言いますし、その由来を辿らなくても良いのであれば、現在は『2万を越す』と言う人もいる様なのです。
 なんでも、最近は『核家族化』が激しく『新たに自分達の家紋を!』と言う動きもあるそうで、ユニークな物も目立っているそうなのです。
 しかし、元々は『その家の理念』を子孫に伝えるべきとして生まれて来たものなのです。
 それを忘れては『ユニークな家紋』も残るものとはならないのかも知れません。

 ところで『平氏の家紋』を考える時、その祖を『桓武天皇(かんむ・737~806)』と考える事は常識ともなっているのですが、その様な目て見た場合平氏は次の四流となるのです。
  ①、第50代『桓武天皇』の『桓武平氏』
  ②、第54代『仁明天皇(にんみょう・810~850)』の『仁明平氏』
  ③、第55代『文徳天皇(もんとく・827~858)』の『文徳平氏』
  ④、第58代『光孝天皇(こうこう・830~887)』の『光孝平氏』
 と言う人達が臣籍降下の身となっているのです。
 しかし、結果的には『桓武平氏』以外は目立った『平氏』はいなかったと言えるのです。

 そして、その『桓武平氏』さえも、元を正せば四流になると言うのです。
 つまり、『桓武平氏』は天皇の三男とも五男とも言われる『葛原親王(かずらわらしんのう・786~853)』に源を発すると言われるのですが、ハッキリしていない事も多いのです。
 結果的にこの人の流を汲む人達が大きな仕事をしたと言えるので名前が残っているのですが、この人が優れた『武人』と言うよりも『文人』であった事がその様に指せているのかもしれません。

 すなわち『葛原親王』は825年子女を臣籍降下させて『平』と言う姓を名乗る事を上奏して許可を得ているのです。
 ですから彼自身には『平』姓は無いのです。
 『平』姓を持つのは、子供達で長男の『高棟王(たかむねおう・平高棟・804~867)』と次男『善棟王(よしむねおう・平善棟・?~829)』そして『高見王(たかみおう・平高見・810?~857?)』と名付けられた男子なのです。

 必然的にこの時点では『桓武平氏』も三つの流なのです。
 そして、『高棟王』の流れは京の公家の中で育ち『堂上平氏』とも呼ばれたようですが、やがて『平清盛(1118~1181)』の正室『平時子(二位の尼・1126~1185)』やその弟の『平時忠(1130~1189)』を排出するのですが、『善棟王』の流れと言うものは彼に子孫がなかった事から消えていったと言うのです。

 『桓武平氏』が何故名を残す事になったかと言えば、それは『高見王』の子どもとされる『高望王(たかもちおう・平高望・生没年不詳)』と言う人が表れてからであると伝えられている様なのです。
 なんでもこの人は、時の第59代『宇多天皇(うだ・867~931)』の勅命により臣籍降下して『平高望』を名乗り898年『上総介』に任ぜられて関東に下り、在地勢力との関係を深め、任期が終わっても帰らず『高望王流桓武平氏』の基盤を固めたといわれ、それが『坂東平氏』となって行ったと言うのです。

 そして『平清盛』等が属する『伊勢平氏』もまた、下総を支配した『平将門(?~940)』等と共に常陸を支配していた『平貞盛(?~989)』の子孫となると言うのです。
 『高望王』はやがて西海道の国司(902~)として『大宰府』に移り住み、その地で没したと言われているのです。
 因みに、『菅原道真(845~903)』も903年この地で没していると言うのです。

 ただ、不思議な事に『高望王』に関する文書等は一切無いと言う事なのですが、或いはこの『高望王』と言う人、時の権力者達にとっては『本当に都合の悪い人』であったかもしれないとも思うのです。『歴史は勝者の為の物』と言う視点に立てばそれも『納得』出来ることかも知れません。
 とにかく、『桓武平氏』も詳しく見れば『高棟流』『善棟流』『高見流』と『高望流』の四流が数えられる事になると言うのです。

 ところで、『平氏』の人達が必然的に使っている『平(たいら)』と言う姓ですが、これにも面白い話がある様なのです。
 当然の事ながらこれは『桓武天皇』の話となるのです。
 なんでも『桓武天皇』の母と言う人が『百済』から来た姫君であった事に関係すると言えるかも知れないのです。

 『桓武天皇』と言う人は、第49代『光仁天皇(709~782)』の第一皇子として生れたと言います。
 しかし、生母が『百済』から『朝廷』に献上された人であった為、長子とは言いながら大変厭な思いもされた様なのです。

 母は『光仁天皇』の側妾となって始めて『高野新笠(たかののにいがさ・720?~790)』と言う名前を貰ったと伝えられるのです。
 母がその様な人であった為、子供達に皇位を継承する可能性は無いように見えたと言うのです。

 ところが、『光仁天皇の皇后』の呪詛事件等が発覚し、周りの状況は大きき変わってしまい、皇位は『桓武天皇』が継承する事になってしまった様なのです。
 これは『桓武天皇』を極めて積極的な天皇とした様なのです。
 母の苦労を始め様々な事を『嫌という程』見て来た為なのかも知れません。

 『平安京遷都』と言う事も『坂上田村麻呂』を『征夷大将軍』に任じて蝦夷征伐などを企画したさせると共に、皇族の『臣籍降下』と言う事も積極的に行った様なのです。
 その為なのでしょうか?『桓武天皇』は、結果的にと言うべきでしょうが、非常に沢山の『奥様』を持つ事になり、子供達を『臣籍降下』させた様なのです。

 その中に『多治比真宗(貞子・769~813)』と言う夫人もおり、その子供達が『桓武平氏』へと進んで行った様なのです。
 つまり、この人との子どもが『葛原親王』と言う事になる様なのです。
 『平』と言う姓に関しては、始めは『多比良(たひら)』と書いていたと言われるのです。それが変化して行って最終的に『平(たいら)』となったと聞きます。
 『多治比』が変化して行ってなってしまったとは・・・・
 『色香に迷って・・』このくらいの事は、あっても良さそうではあります。

 つまらない余談が多過ぎるのが年寄りの欠点とも言えますが、話を元に戻す事にします。
 友人のデザインを勉強している人に言わせれば、『桓武平氏』の紋とされる『蝶(揚羽蝶)』はデザイン的にも優れた物であるそうなのです。
 デザインと言うものに余り関心の無い私にすれば『一体何を基準に・・・』となりそうなのですが、そこは我慢して・・・、確かに『綺麗な物だな』とは思うのです。『お公家さんの趣味かな?』とも思うのです。

 でも聞きますと『桓武平氏』に因む『家紋』はこれだけではない様なのです。
 どうやら京都にあった『公家平氏』や武家の『伊勢平氏』こそ、『蝶』と認識してかまわない様なのですが、関東に本拠を持っていたと言う『坂東八平氏』と言う人達は『桓武平氏』の流である事を知りながら、其々に違った『家紋』を用いていたと言うのです。

 勿論、『坂東八平氏』と言っても群雄割拠の中の武家ですので当然の事ながら『栄枯盛衰』と言う事もあり、これが『完全な八平氏』と云う物はない様なのですが、鎌倉幕府成立前後を思えば、主流亜流を問わず以下の諸氏が『坂東八平氏』と言われていた人達であった様なのです。
           『家祖』   『根拠地』     『家紋』    『著名者』
  ①、秩父氏=平将恒=武蔵国秩父   = 桐      『畠山重忠』
  ②、梶原氏=鎌倉景久=相模国鎌倉 =矢筈      『梶原景時』
  ③、上総氏=平忠常=上総国・下総国 =九曜     『上総介広常』
  ④、千葉氏=平忠常=下総国      =月星紋    『千葉常胤』
  ⑤、土肥氏=中村氏亜流=相模国土肥=左三つ巴  『土肥実平』 
  ⑥、三浦氏=平忠通=相模国三浦   =丸に三引両 『三浦義澄』
  ⑦、長尾氏=長尾景弘=相模国鎌倉  =九曜巴
  ⑧、北条氏=北条時家=相模国鎌倉  =三つ鱗    『北条時政』
  ⑨、大庭氏=鎌倉景正?=相模国南部=違い柏    『大庭景親』
  ⑩、中村氏=平頼尊 =相模国西部  = 多数     『佐奈田義忠』
  ⑪、相馬氏=相馬師常=下総国・陸奥国=九曜・馬
  ⑫、和田氏=三浦氏亜流=相模国和田=檜扇      『和田義盛』   
 つまり『坂東八平氏』と言う呼び方は後の時代『便宜上』創られた物と言える様なのです。
 それにしても『桓武平氏』でありながら、『伊勢平氏』や『公家平氏』に見られる『家紋』の『揚羽蝶』は影も無さそうなのです。 

674『日本美女列伝』25 平家物語を彩る美女⑤外伝?1

 ところで、『伝記物語』等と言う『物語』には、その不足部分や逸話等を補充する意味で『外伝』と言う物が存在する事も多いと言う事である。
 本来は『本伝』に対する意味で同じ作者が創った物である様だが、時代が進むと共にその様な作者に関する面は重視されなくなった様で、その話に詳しい(?)と言う人達が書き加えて行った様なのです。
 言わば、善意に解釈すれば『物語』を色づける為に創られたものと言えるのですが、一方では『本伝』に関係の無い事も多く内在し、そちらの方が興味を集めると、『外伝』とは言いながら『本伝』を凌ぐ存在となることもあった様なのです。

 その様な見方をしてしまうと『平家物語』を『本伝』とすれば、『源平盛衰記』は『外伝』とも呼ばれるべき物になり、『義経記』等は『銘々伝』に当たるのではないかと思うのです。
 私達が良く知るものとしては、『忠臣蔵』の『四十七人の義士』についての伝記や物語、所謂『義士銘々伝』と言う物がそれに当たる事にになりそうですが、この『外伝』と言う様な様式をとった『物語』と言う物はかなり前からあり、それを辿って行けば『中国』の紀元前に書かれた『国語(春秋)』と言う歴史書に因む『春秋左氏伝(春秋外伝)』に行き着くと言うのです。

 この中語の『国語』と言う書物は、紀元前の『周』と『魯』、そしてそれに代わって覇を唱えた『斉』『秦』『宋』『晋』『楚』の有力諸侯の王侯や文武官の言動を採取して納めてあると言うものですが、『春秋左氏伝』は『国語』の注釈書とも言え、中国の紀元前700年頃から約250年間を書いており、その後に出された『春秋公羊伝』『春秋殻梁伝』とあわせ『春秋三伝』となっているという事です。

 因みに、今日私達が良く聞く事の出来る『覇王』と言う言葉は、これらに登場して来る『斉』『秦』『宋』『晋』『楚』の有力諸侯から生まれて来た言葉でもあるそうです。

 それはともかく、この様な『物語』の成立経過を見ますと、『外伝』が更に『外伝』を生んで行くと言う現象も見られるとも言えそうなのです。
 しかし、現代を迎えて『外伝』と言う表現を使ってしまうと、『余りにも堅苦し過ぎる』とか『誤解』を産みかねないとかで、この頃は『サイドストーリー』とか『アナザーストリー』と言う『和製英語』を作り出しそれに宛てていたと言いますが、更に最近の様に『漫画』『アニメ』や『コンピューターゲーム』が普及してくると、それでは間に合わず『和製アニメ』等の言葉に変化を見せていると言うのです。
 この様になると、私の感覚では最早付いては行けなくなっているのですが、これも時代なのかも知れません。

 折角ですから、私も『平家物語』に『アニメ的存在』を求め様と思います。
 その様な立場で『平家物語』を見直して見ますと、どうやらそれは『伝説』とも名を変えて来る様なのです。
 『鶴富姫伝説』とか『平景清伝説』『鬼山御前伝説』『安徳天皇伝説』等の『平家落人伝説』となるのかも知れないのです。

 しかし、一口にこの様に言ってしまっても、これらの『伝説』に登場する人達が、必ずしも皆『平家物語』に登場している人物ではありませんし、その実在さえ疑問視すると言うのが実情とも言えるのです。
 それ故『伝説』となっているとも言えますが、何か『ウソ』と決め付けるには『勿体無い』物がその土地にある事は事実なのです。

 『平家の落人達が住んだ部落』と伝えられる場所も各地に残り、『平家の落人伝説』と言うものも沢山ある様なのです。
 今回は、その中から今も尚物語られている幾つかを拾って見たいと思うのです。

 私が一番先に取上げたいのが『鶴富姫伝説』と言う物です。
 『鶴富姫』と言う姫君が、一体どの様な方なのか、それを明らかにする事ものは一切ありませんし、彼女が住んだという『鶴富姫屋敷』と言う物は現存し、今では『国指定重要文化財』としてあるものの、それはこの様式の住宅がこの辺の代表的な住宅である事に由来し、飽くまでも『伝説上の遺構』としての物でしかないのです。
 ただ、純然たる民家と見るには規模も大きく、本格的な知識の基に造られた物らしく、それ故日本の民家としては初期に指定を受けたものであったようです。
 おそらく、それなりの由来があると思われて『伝説の力』ともなって行ったのでは名井でしょうか。

 この『鶴富姫屋敷』と言う物は、現在の宮崎県東臼杵郡椎葉村(しいばむら)と言う所にある建物です。
 今でこそこの村には、昭和25年に日本最初のアーチ式ダムが企画され昭和35年より『新・平家物語(1951)』の中で『椎葉村』を理想郷とした『吉川英治(1892~1962)』によって名付けられた『日向椎葉湖』と言う人造湖を抱える村となっていますが、それまでは『焼き畑農業』に頼る村であった様なのです。
 
 日本の『民俗学』の父と言われる『柳田國男(1875~1962)』はこの地を訪れ『椎葉村はその山のあなたの中央山脈の内で、肥後の『五箇荘(ごかのしょう)』とも嶺を隔てて隣である・・・。村の大きさは壱岐よりはるかに大きく、隠岐よりは小さい。しかも村中に三反と続いた平地はなく、千余の人家はたいてい山腹を切り拡げておのおのその敷地を構えている』と書いていると言うのです。

 つまり、幾重にも重なる山々の中に『椎葉村』はあると言え、当時の農作物と言えば『稗』や『粟』なれば未だ良しとしたと言え、木の根(葛)草の根(ワラビ粉)等が食の中心であったのではないかと思うのです。
 『葛の粉』とか『蕨粉』と言えば現在では『和菓子』等の高級素材として知られる物ですが、これらの『粉』は木の根や草の根を叩いて水にさらして作った粉と言え、穀物を粉にする事に比べれば、はるかに手間を要したものであった様なのです。
 つまり、『椎葉村』の人達は『朝は朝星、夜は夜星』と言われるほど働いても、決して楽な生活には遠い物であった様なのです。
 
 この『椎葉村』は今では、民謡の『ひえつき節』で有名な土地とも言えますが、この『ひえつき節』にも実際は『粉引き歌』であり、深山幽谷に住む人達の『労働歌』でもあった様なのです。
 この唄は、元々この地に伝わる平家の残党の娘『鶴富姫』と源氏の追討軍の将『那須大八郎宗久(架空の人物)』のロマンスを詠んだ『労働歌』としても詠われて来た物であったと言われています。

 『那須大八郎』と言う人は、『屋島の戦い(1185)』で平氏方の軍船に掲げられた『扇の的』を射落としたと言う『那須与一(1169~?)』の弟とされる人で『壇の浦の戦い(1185)』で落ち延びた『平家の落人』を追ってこの地に来た武将とされています。

 『那須与一』と言う人は、この時の軍功で丹波・信濃等五カ国に荘園を賜り、今では出身地の栃木県に本拠を置いた『那須氏』の祖先とも見なされる人でもあると言うのです。
 これだけの手柄を上げたにも拘らず、源氏の正史とも見なされる『吾妻鏡』には一切記述がない所から、『那須与一』その人の人生には『謎』が多いと言うのです。

 『那須大八郎』の話もその一つと言えるのかも知れません。
 『那須大八郎』はこの地に来て『椎葉村』周辺が気に入り、任務も忘れて暮らす内に『鶴富姫』と知り合い、『恋』に落ち姫を『懐妊』させます。
 そこに鎌倉から帰国命令が届き、やむなく帰国の身となってしまい、さりとて『鶴富姫』が平家の流れを汲む者であったのでは連れてもいけない。
 そこで、自分の所持する名刀『天国丸』を『鶴富姫』に与え、『男の子ならば、自分の国下野に連れて来い、女の子ならばそれに及ばない』として泣く泣く『椎葉村』を後にしたと伝えられるのです。
 『鶴富姫』はやがて女の子を産み落とし、その娘に婿を迎えて『那須下野守』と名乗らせ、その一族が代々『椎葉村』を支配してきたと伝えられると言うのです。

 実際、栃木県に伝わる『那須家』の家系図からは、その様な雰囲気は発見出来ず『那須大八郎』の存在さえも確認できない事から、この事は『伝説』の域を出ないと言う事ですが、実際の『椎葉村』には『那須』と言う姓は多く、『ムゲ』には否定出来ない話でもある様なのです。
 関係付けるとすれば『那須与一』自体が、『那須一族』に於いては十一男とされる人で、兄の『那須十郎為高(千本為高・生没年不詳)』共に源氏に従った人とされています。
 つまり、他の九人の兄弟達は皆、平氏方の武将となっているのです。

 ところで『ひえつき節』自体は、この様な『鶴富姫』の『悲恋?』を読み込んだ民謡として知られますが、歌そのものを見直してみれば、その元々が『夜這い歌(猥歌)』に根ざした物であった為に、一部で唄われこそすれ、中々表立って一般的には紹介し難かったものの様なのです。

 しかし、ご存知の様に詠いやすい旋律を持っている『俗曲(民謡)』とも言えるので、土地の人達には良く口ずさまれていたと言われます。
 そんな昭和2年(1927)、実家の家業不振の為『早稲田大学』を休学、この地の小学校へ代用教員として赴任せざるを得なかった『酒井繁一(1901~1984)』がこの唄を耳にします。

 そして、次に彼の脳裏を頭をよぎったのは『子どもには無理!』と言う事であった様なのです。
 つまり、単に『卑猥な歌』であったよりも、『子供達に説明しずらい歌』であった様なのでもあるのです。
 すなわち『労働歌』として見れば、若者達を元気付ける物であっても『教育的』には『些か辛らつに過ぎた表現が多い物』であった様なのです。
 そこで、彼はこの唄を『うたの広場』と言う公開の場にも出せる様にと、夏休みをかけて作り変えたと言うのです。

 その後、『酒井繁一』氏は実家の倒産等から昭和7年(1932)にはブラジル移民の身となってしまいます。
 この『ひえつき節』と言う物は次ぎの様な歌詞のものとして知られます。
 この様な経過を経た為にこの歌はこの頃より、地元では小学生等にも歌われ始めていたのだと思います。
             『ひえつき節』
  にわのさんしゅゆのき なるすずかけて
                      ヨーオー ホイ
     すずのなるときゃ でておじゃれヨ

  すずのなるときゃ なんというてでましょ
                      ヨーオー ホイ
     こまにみずくりょと いうてでましょヨ

  おまやへいけの きんだちながれ
                      ヨーオー ホイ
     おどまついとうの なすのすえヨ

  なすのだいはち つるとみすてて
                      ヨーオー ホイ
     しいばたつときゃ めになみだヨ

  ないてまつより のにでてみやれ
                      ヨーオー ホイ
     のにはのぎくの はなざかりヨ

 確かに、この唄の『歌詞』を思うと、『元歌』と言う物がこの地方の『夜這い唄』として歌われて来たものであった事は容易に想像できるかと思います。
 『あなたに会いたい時は庭に鈴をつけて知らすから、出て来て欲しい』と言う忍ぶ姿を、土地に伝わる『鶴富姫』と『那須大八郎』の故事に置き換えて歌った物であったのです。
 何の為に、鈴が合図になるか等と言う事は、いくらも逃げ様が出来る事となったのです。
 聞けば、四国の民謡の名曲として知られる『よさこい』は『夜に来い』と言う言葉に由来するとも言われますし、その様な事例は他にも多く、『串本節』『八木節』『北海盆歌』等も民謡の元々は『夜這い歌』であったとも言われるのです。

 ある意味で、とても上品にも聞こえた『ひえつき節』はやがて『レコード会社』の知る所となり、昭和8年『レコード』となって全国的な大ヒットともなり、名曲として知れ渡る事になるのです。
 ただ、これに大きな影響を残した『酒井繁一』氏がこれを知ったのはブラジルで彼の生活にも安定が見られる様になった太平洋戦争後の『サンパウロ』の路上での事だったと言います。
 彼にとっては覚えのある民謡がラジオから流れて来た事を信じられなかったと言うのです。

 彼が、この『ひえつき節』の作者であった事が知れ、宮崎県の『置県100年祭』と言う事で帰国された様ですが,今は既になく聞き忘れている疑問もあると言うのです。
 それは、この歌に歌われている『庭のさんしゅゆの木』であると言う事です。
 現在、『椎葉村』はこの歌が800年前にも遡る『壇の浦の戦い(1185)』以後を想定してるという事で、『さんしゅゆの木』を『サンショウの木』として発表している様なのです。

 『サンショ』と言う植物は、良く知られている様に『ハジカミ』と言う別名を持つ物ですが、日本人にとっては古くから大事にされて来た植物で、特に『柚子(ゆず)』と並んで『日本料理の二大香辛料』とランクされる物でもあるのです。
 その為、庭木としても良く作られている物で、大きい物は3mぐらいの立木ともなり、各家の庭には必ずあった物なのです。
 ただ、多くの『サンショの木』は、鋭い『刺』を持つ木としても知られますので、植えられている所は限られていたと言えるのかも知れません。

 この事からすれば、歌の冒頭の歌詞も私は『庭のサンショの木』が正しいのではないかと言うのです。
 『椎葉村』もこの立場をとり、『ひえつき節』に関するコンクール等の『公報』等は総て『サンショ』と言う物で統一してる様なのです。
 しかし、植物に詳しい人に言わせますと『さんしゅゆの木』と言う物も現実にはあり、それだけでは簡単に『サンショの木』のとは・・・と言うことなのです。

 それで元を正してみますと、『さんしゅゆの木』と言うのは中国から輸入された植物として確かにありました。
 私も近くにある『六義園(りくぎえん)』の『枝垂れ桜』の近くにあるので良く目にしますが、早春に『小さい黄色い花』を付けるどちらかと言えば『地味な木』である様に思うのです。
 どうやら、江戸時代の1772年に『薬用(漢方)』の材料として輸入された物の様なのです。
 ですから、『歌詞』の成立時期の昭和を考えれば『さんしゅゆ』であっても不思議は無い事にもなるのです。

 『史実』に拘ろうとすれば『サンショ』が正しいと言えるのですが、『ロマン』と言う見地からすれば、それは庭木として珍しくもなく、とかく『刺』を注意しなければならない『サンショ』よりも、『鈴』の様な『可愛い花』をつけて目立たない『恋路』を物語る様に見える『サンシュユ』と言う木を持って来たのかなとも思うのです。
 ただ、これは作者とされる『酒井繁一』氏にしか判らない事でもあると言えますし、今となっては確認する方法も無いのです。
 そして、更に私なりの余計な欲を言えば『サンショ』より『サンシュユ』の方が音感的には歌い易いかな?『サンショ』では、歌い難いとは言えそうなのです。

 さて、この『椎葉村』と言うのは『平家の落人伝説』が多い所で、他にも『御池伝説(みいけでんせつ)』とか『平景清伝説(たいらかげきよでんせつ)』と言う物も実しやかに伝えられています。
 『御池伝説』と言うのは、この地に逃れて来た平家の人達が追っ手である源氏の白旗を認め『今はこれまで!』と一同揃って自害したされる所が『御池』と言う所であると言うこと、ただ事の真実は違って源氏が押し寄せた事はなく、それと見誤ったのは、近くの『白鳥山』に咲く『コブシ』や『ヤマザクラ』であったと言う事なのです。
 又、一説には村人の料理の煙をそれと見誤ったと言うことも言われていると言うのです。

 何れにせよこの事は『山村の生活』を知らなかった平家の公達の悲しさを物語るものなのかも知れません。
 この村には『白水の滝』と名付けられた滝があると言う事ですが、その名前の由来は、平家の落ち武者達がこの上流で米をといだところ、そのとぎ汁がこの滝に流来て『真っ白』に見えた事に由来すると言うのです。
 この村の人達には『こめのとぎ汁』が白いと言う事など知らなかった事なのかも知れないとも思うのです。

 更に、この村には『平景清(藤原景清・?~1196?)』と言う実在だけは確認されている平家の武将に纏わる伝説も残されていると言います。
 『平景清』と言う人は、その勇猛な事から『悪党』と呼ばれた武勇の侍の中でも『悪七兵衛』の異名を持つ程の人であったと伝えられるのです。
 この事は、江戸時代になって『近松門左衛門(1653~1725)』等によって取上げられ『浄瑠璃』や『歌舞伎』で庶民が親しみやすい人となって行った様なのですが、『椎葉村』の時点では、未だ『源氏に恨みを持つ武将』として登場するのです。

 『景清』は『平家』と共に転戦し、『屋島の戦い』では源氏の武士の『鎧のしころ』を素手で引きちぎったと言う『逸話』も生れたほどであったと言うのです。
 『しころ(錣)』とは兜や頭巾などの下部に布等をたらして後頭部を保護する覆いの事なのですが、これに敵が手を触れる事はなく『しころ』を云々されると言う事は結果は明らかな事と言えます。
 まして、素手で引きちぎったとなれば想像以上の強さであったと言えます。
 しかし、武運つたなく『壇の浦合戦』では捕虜となってしまい、本来なら斬られてしまうところであったと言われます。

 しかし、その勇猛さに『尊敬』さえ覚えた『源頼朝(1147~1199)』は、彼の武勇を惜しみ彼を助命したと言うのです。
 日頃は、『源氏、憎し』と言う事から『源氏の繁栄を見る事になるならば、生きてはいない!』といっていたと言いますが、その処遇には感激し、やがて源氏の御家人に『預けられた』事を契機に絶食して命を絶ったと伝えられるのです。

 ただ、これでは『平家第一の武士』と詠われた人が・・・と思われたのでしょうか『平景清』に関する伝説が次々と生れて来た様なのです。
 つまり、『景清』が『源氏の世を見たくない!』といっていた事を捕らえて、『景清の目』に関わる伝説を生んでいるのです。
 
 その為『景清』が自らの手で『この目が総て悪いのだ!この目があるからいけないのだ!』と叫んで両眼をくりぬいた、そして、空に向って投げつけたという故事を作り出した様なのです。
 『椎葉村』には『平景清』が天に向って投げた『目』が落ちたという所に『生目神社(いきめはちまんしゃ)』と言われる神社があり眼病に霊験があるとされていると言うのです。

 『椎葉村』にはこの話を意味づける様に、『景清』がこの地の『僧』となって棲み、幼い頃判れた娘の『人丸』の訪問を受けたという話が残っていると言います。
 娘にとっては父の名を『景清』と知るばかりで、名前を頼るしかなかったと言うのです。
 『景清』もまた、やせ衰え昔の面影は消えて・・しかし、誇りだけは捨てきれず『私は何も判りません』と応えるだけであったと言うのです。
 あきらめて、帰りかけた人丸に彼を知る優しい土地の人は『父である』事を知らせ、改めて二人を引き合わせてくれたと言うのです。

 『平家の落人伝説』は、『柳田國男』が峰一つ隔てたと言った熊本県の『五箇荘(五家荘・ごかのしょう)』と言う地域にもある様なのです。
 『五箇荘』と言うのは、現在の八代市泉町に位置した椎原村(しいばるむら)・久連子村(くれこむら)・葉木村(はきむら)・樅木村(もみきむら)・仁田尾村(にたおむら)の五つの集落を総称したものであったと言えますが、この集落の中心を流れている川(川辺川)は人吉市で『球磨川』と名を変えて八代湾に注ぐ事になるのです。

 この地域も宮崎県の『椎葉村』と同様に、悲しい(?)平家の落人伝説が物語られる所でもあると言われている様なのです。
 此処の言い伝えも、平家の武将で横笛の名手として知られた『平重盛(1138~1179)』の三男『平清経(1163~1183)』に因む物であると言うのです。

 史実的には1183年の平家の都落ちに際し、彼は九州まで逃れたと伝えられ、最終的には1180年より反乱を起こしていた『緒方惟栄(生没年不祥)』に大宰府を追い落とされ、西海道の豊前国柳浦(現在の小倉付近?)で入水自殺した人とされ、これが『平家』に与えた影響は事の他多き物であったと伝えられるのです。

 その為なのかも知れませんが『平清経』だけは、尚も生き、この地『五箇荘』に逃れて『緒方』と姓を変え、この地方を支配したと伝えられている様なのです。
 そのような由来もあり、この『旧・泉村(五箇荘)』と言う地域では、ほかの地域の『平家落人部落』にもまして『平家の里』なる物を造り、『筑前琵琶』の『平家物語』等を『売り』にしていると言う事なのです。

 因みに、『緒方惟栄』の末裔には江戸時代に大阪で『適塾』と言う『蘭学塾』を開き多くの人材を養成すると共に『天燃痘』の治療などに貢献し、『日本近代医学の祖』と呼ばれた『緒方洪庵(1810~1863)』がいると言います。

 ともあれ、この地域に伝わる伝説が『鬼山御前』の話であると言うのです。
 『鬼山御前』の名前の由来ははっきりしませんが、この『御前』の昔は宮中に仕える『玉虫御前』と言う名の女官であったと言います。
 『玉虫御前』と言えば、あの『屋島の戦い』で源氏に『扇の的』をかざし、『腕があるなら射落としてみよ!』と挑発した女官でもあるのです。

 この場は『那須与一』の名を高からしめて終わるのですが、源氏にとっては憎まれる女性になった様なのです。
 少なくとも、彼女自身はその様に考え、この地に逃れて来ても『岩奥』と言う所に隠れる様に生活し、名も『鬼山御前』と改めたと言うのです。

 しかし、彼女の美貌は隠しがたく『椎葉村の平家追討』を目的にこの地を訪れた『那須与一』の息子『那須小太郎宗治(架空の人物?)』と知り合う事になり、やがて恋に落ち、二人は夫婦となったと伝えられているのです。
 そして、二人はこの地にそのまま棲み続け、一生を暮らしたと言うのです。

 なんでも、この『鬼山御前』と言う人、大変『乳』の出が良かった人と伝えられ、近くにある『保口若宮神社』には『乳の神様』として祀られていると言うのです。

 それにしても、これが事実なら『那須大八郎宗久』と『那須小太郎宗治』、本当に『武将』としては不適格な身内を『那須与一宗隆』は持ったものです。
 伝説の様なものとして『那須与一』は学問肌の『梶原景時(1140~1200)』との不和が原因で『吾妻鏡』にも取上げられる事無く、歴史から消えて行った様ですが、余りにも『人間くさい』一族でもあったのでしょうか。

 ところで、この『五箇荘』の中を流れる『川辺川』を下って行くと、あの『五木の子守唄』で知られる熊本県球磨郡の『五木村』を目にする事になります。
 伝えによりますと、この村も『平家の落人』とは浅からぬ因縁があり、『五木の子守唄』にもそれが偲ばれると言う事なのです。
 私にすれば『そんなこと、何処に?』とも思うのですが、唄自体がそうだと言うのです。

 『子守唄』と言うのは、その目的によって二つのタイプに分けられると言うのです。
 一つは、『赤ん坊』を寝かしつけたり、遊ばせたりする為に唄われるもの、そして、もう一つが『守り子唄(もりこうた)』とも呼ばれるべきものだと言うのです。
 『五木の子守唄』や『竹田の子守唄』は『守り子唄』の代表的なものとされている様なのです。
 つまり、『守り子唄』と言うのは、『子守をする少女が自分の不幸な境遇などを歌詞に織り込んで、子どもに唄って聞かせ、自らを慰める為』に唄った歌と言えます。
 確かに、『五木の子守唄』には、その様な物があふれている物とも言えます。
 此処に、一番良く知られている物を掲載して見ようとも思います。

          『五木の子守唄』
   おどまぼんぎりぼんぎり ぼんからさきゃおらんど
   ぼんがはよくりゃ はよもどる

   おどまかんじんかんじん あんひとたちゃよかしゅう
   よかしゃよかおび よかきもん

   おどんがうっちんだちゅうて だいがないてくりゅきゃ
   うらのまつやま せみがなく

   せみじゃごんせぬ いもとでござる
   いもとなくなよ きにかかる

   おどんがうっちんだば みちばたいけろ
   とおるひとごち はなあぎゅう

   はなはなんのはな つんつんつばき
   みずはてんから もらいみず

 これが、私達にとっては『当たり前』の様に知られているのですが、『守り子唄』の本来の形からすれば、『おなじ物』は一つも無いと言える様なのです。
 かって『子守』と言うものに借り出されていた少女達は、皆家の貧しさゆえに『口減らし』の為に三十三人の地主に預けられていたと言う現実があると言うのです。

 すなわち、『五木村』と言うのは『五箇荘』に平家の落人達が定住した事で作られた村であったと言うのです。
 つまり、鎌倉幕府は御家人の『梶原氏』『土肥氏』を送って隣村の『五木村』に住まわせ監視する様に命じたと言うのです。
 その為、彼等は『三十三人衆』と言う地主集団を造り、『名子』と言う『小作人』達をしてその任に当らせた様なのです。

 『名子』は『かんじん』とも呼ばれた様なのですが、その生活実態は必要な田畑・家屋敷はもちろんの事、農具に至るまで『地主』から借り受けて生計を立てる事になったと言います。
 その為、娘達も10歳になれば、地主の家や他村へ『子守奉公』に出されたと言うのです。
 ただ、伝えによりますと家族にとっては『口減らし』が目的であった様で『奉公』とは言うものの『食べ物を食わせてくれるだけで良い』と言う物であったそうです。
 『五木の子守唄』と言うのは、その様な事が基本となった為、其々に余計に特色が滲んでいるものだと言うのです。

 この様な性格の歌であった為、地域の人達には歌い継がれてきたものの、巾的な広がりを見せる唄ではなかった様なのです。
 今日では、知らない人の方が少ない『熊本県の代表的な民謡』とも言える物なのですが、それは戦後の事、昭和25年(1950)に『古関裕而(1909~1989)』が採譜して民謡歌手とも言われた『音丸(1906~1976)』に『お座敷唄』として発表させてからの事で、1953年には日本調歌手『照菊(1924~1988)』によって大ヒットしたと言うのです。
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